5月6日
昨夕、橋本の映画館で一本映画を観た。『ミナリ』という、韓国からアメリカに移住した一家の物語。内容は概ね良かった。(韓国人に特有のように思える、哀しみ、憎しみ、怒りの矢印の強さと速度はいつも少しだけ後ずさりしたくなってしまう)韓国人の出演する作品でいつも感心させられるのは子役の演技。上手い/下手で語るにはいささか申し訳なさすら感じる、彼ないしは彼女の奥行きに感心させられる。今作においては一家の息子役であるアラン・キム君、現在九歳、そして今作がデビュー作。驚嘆。観に行かれてみて。
5月7日
読んだ後、しばらく心にわだかまった一節。
「私は思うんだけど、この世界ってさ、理屈も通ってないし、親切心もかなり不足している」
「そうかもしれない」と青豆は言った。
「でも今更取り替えもきかない」
『返品有効期間はとっくに過ぎている』とあゆみは言った。
5月8日
大学の講義の中で、恋人と夫婦との違いについて触れた。
恋人という関係は一方的な告白に始まり一方的な別れを告げて終えることができる。夫婦は?社会にはルールというものがある。
恋愛のスタートラインに立った時、終わり/別れた時のことは考えない方がいい、とよく言う。確かにそうかもしれないが、一目惚れした白いTシャツ、あるいはアイボリーのトートバッグを買うか迷っている時に、ふと"汚れ"について考えを巡らせることとなんら変わりないと思う。恋愛の終わりについてはタグの洗濯表示を確認するように考えてしまうものだと思う。
5月9日
僕はいつからか、いい人になろうと努めていたように思います。"人にされていやなことは人にしない"、と小さい頃言われたことが無意識のうちに信条のようなものになっていました。ただ、よくよく振り返れば人の顔色を常に伺い、人の良いところも、あまり良くないところにも目のいく人が、いい人であり続けられるわけがありません。少なからぬ人から反感を買ったことがあります。(担任や顧問の先生とうまくやれないタイプでした)人がされて嬉しいことを思いつくということは、反対に人がされて嫌なことも同時に思いついている場合があります。後者の方は思いついた時点で既に少し手遅れなのです。前者を選ぼうと強く意識してきましたから、概ねオートマティックに前者の行動をとるような仕組みになっているような気がします。これはもう生まれつきとしか言いようがありません。
(そういえば、弟が誕生した時、僕はいきなりほっぺたを有り得ない強さでつねったそうです。そうだった、そうだった。)
自分らしく生きると周りからはみ出るだろう、だから自分を常に正常な状態にしようと、抑えつけながら生きている感触が確かに生まれてからずっとあります。そんな大袈裟なものではありません。社会の中で生まれたのではなく、生まれてからどうにかして社会に入れてもらわなければならない、という感覚です。社会は"しなきゃならない"ことが多い。おやつの我慢、お片付け、お風呂、から始まって、仕事や納税。特殊な例で言うと優しさを持って叱るだとか、終活だとか。自己中心的に考えていては生きていけません。その上、生涯をかけて生きがいを見つけろ!というミッションが課されています。それを持たない人は芯がないだ、ちゃらんぽらんだと揶揄されるような風潮。
また『気にしすぎ』で一蹴できる駄文を書いてしまいました。
5月10日
今日は朝から録画していたドラマを見て、その間に洗濯機を回して、昼からはまた橋本へ出かけた。2回目の『花束みたいな恋をした』を観た。1回目とは違って『『普通になるのって難しい』』というセリフが胸に残った。
5月11日
つまるところ僕には"厄介を避ける"というモットーがあるらしいことが分かってきました。厄介ごとをすること/されること、厄介な人と関わること/(自分がそう)思われることをとにかく避けたいらしい。そんなのあなたに限ったことではない?確かにそうかもしれません。ですが、世の中には恐ろしいことに厄介ごとを好む、厄介な人(特に女性に多いような気がします)が一定数います。(その人たちが最も繁殖しやすいのは井戸端でしょう。)僕が他人の内情に首を突っ込む厄介な人になりたくないと思うのはもちろんですが、それ以上に、後から振り返るとあれこれ言っている自分はどうなんだと虚しい気持ちになってしまうようなところがあります。お酒を飲んで口を滑らせた帰り道の街灯の明るさでハッとさせられ、いつもほんの少し後悔をしています。
5月14日
2日間、書く間もないほど忙しかった、わけではなく、これといったことは何もせずに過ごしていました。
今日はというと、随分久しぶりに都心へ出ていきました。有名人を4人も見ました。東京はすごいと常々思っていますが、これほどまでまざまざと見せつけられたのはこれが初めてではないでしょうか。