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図書館奇譚

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 小川洋子の文章を読むたびに感じる「わからない」という感覚。そのぼんやりとした感覚を少しでも明瞭にするため図書館へ赴き、小川洋子『妊娠カレンダー』について書かれた論文を探した。蔵書検索によると書庫にあるというので、カウンターで資料閲覧のための紙を書いた。司書の方はとても親切で、僕の知的好奇心と調和して頬が緩んだ。どことなく嬉々とした様子で書庫から戻ってきた司書の方から冊子を受け取り、「ありがとうございます!」とハキハキと、図書館に相応しいとは言い難い音量で感謝の言葉を口にした。司書の方はそれでもなお親切な笑みを僕に向けていた。

 こくこくと舟を漕ぐ学生の隣に腰をかけ論文を読み進めると、〈わからない〉こと自体が主題になっているらしかった。僕は論文を読み進める手を止め、深呼吸をした。読書する際の視野の狭さや一律の読書時間内で理解できていることの乏しさを恨んだ。

 その後も論文を読み進めると、"登場人物全員(男女に関わらず)が〈妊娠〉をしている"と語り始めた。三度同じ箇所を読み直した。が、一度目に読んだ時と心理状況や理解度に進歩は無かった。隣に座る学生は夢の世界からログアウトし、ノートパソコンを開いた。パソコンのログインコードは「0306」だった。(誕生日なのだろう。)そう思い、僕は論文にあまりにトリッキーな虚の突かれ方をしたがために、してはならないことを無自覚に行っていることに気付いた。人のパスワードを盗み見するだなんて。僕はもう一度論文に目を落とし、四度目を読むことにした。しかし、状況は全くといっていいほど変わらなかった。天井を見て、大きく伸びをした。すると、突然「そんなんわからんわ!」と図書館に相応しくない大きな声がした。それが自分の声帯から震え出たものだと気付くのには、丁度2秒の時間が必要だった。電卓やタイピングの音はピタッと止まり、沈黙が重みを持った。周囲の学生の〈不適合者〉に対する視線が一点に集まった。(もしその時、僕が黒いTシャツを着ていれば、Tシャツは煙を上げ、そのまま穴が空いただろう。)僕は心の底から痛快な気持ちになり、くるぶしから喉仏までがすっからかんになったような清々しい気持ちになった。直ちに奥のカウンターから顔を真っ青にした先程の親切な司書の人が駆け寄ってきた。40代半ばと見えるその司書は先程はカウンターで椅子に座っていたために気付かなかったが、首から名札を下げ、ストラップの部分には黒と赤のボールペン、それからクマのキャラクターのバッジがついていた。とてもにこやかに微笑む、少し色の剥げたクマのバッジ。視線を少し左右にスライドすればそこには小刻みに震える2本の細い腕があった。左手の薬指には銀のリング。子どもはいるのだろうか、いるとしたら男の子っぽいな、などと考えていると、司書の腕の震えがピタリと止まった。拳がぎゅっと握られ、唾を飲み込む音がした。その音に共鳴するように、電卓とタイピングの音を発していた学生も固唾を飲む音を発した。「ちょっと外に出てもらえますか?」とその司書は今にも泣き出しそうな声で言った。〈僕〉は僕を取り戻し、「あ、すみません。もうやりません。この通りです。」と言い、深々頭を下げた。謝罪の言葉を口にしてなお、体はデトックスをしたかのように軽くなっていた。周囲の学生は再び電卓を弾き、タイピングを始めていた。僕は再び論文の続きを読み始めようと冊子を開いた。そうした僕の落ち着きと図書館の平安とを取り戻した様子を見て安心したのだろうか。親切な司書は突如、

 

『よかったー!!!!!!』

と大きな声で叫んだ。その声は少女のようにいたいけで、凛としていた。音調でいえば間違いなく長調で、雲一つない冬の日の光が持つ鋭さがあった。4階まで吹き抜け状になった図書館の天井に勢いよくその声が衝突すると、スプリンクラーから水が散るように空気の振動が館内に降り注いだ。音が壁やカーペットや蔵書に吸い込まれると、図書館の静まりは一層強調され、僕は甚だ慟哭した。僕は唾を飲み込んだ。そして

「よく、わからない」

と呟き図書館の出口へ走った。