もっとわすれる!

面白かったテレビ・YouTubeについて書きます note▷ https://note.com/131_taka

あちこちいたくて、ところどころくすぐったい

自分で自分の機嫌を損ね、自分で自分の機嫌を取り始めた辺りからだと思う。自分という人間の範囲〈レンジ〉が定まり始めたのは。まったく、人格者なんて言葉を作ったのはどこの誰なんだろうか。もし一目会えたら、顔色を伺い、嘘で塗り固めた"本音"で人格者の烙印を押してもらおう。人格者なんて、何かにつけ鈍感な人が先天的に持ち合わせたもので、無害な人、地位を揺るがさない人のことを言うんやろ?そうで無いと、さすがに救いがなさ過ぎる。さすがにビハインドが、多過ぎる。

人に頼るということは絶対に避けるべきという信条でやってきた。人に頼る、はそれすなわち人の手を煩わせること、人に迷惑をかけることと同義だと認めていたためである。しかし、この社会、人に迷惑をかけないで生きていくことはどうも不可能らしい。度重なるアップデートを経ても未だ〈人に迷惑をかけてしまうバグを修正しました。〉が実装されない。困った。じゃあみんなどう生きているか。人にうまく迷惑をかけながら生きている、らしい。人に迷惑をかけることを厭わない人のことを日本語では図々しい人と呼ぶ。図って迷惑をかけている人なのだ。そう、上手く生きるためには色々と図らなければならないらしい。私はその辺、不器用だと思う。自分で全部やってしまいたい、ある程度の自己犠牲は厭わないから、自分で全部やってしまいたい。人に頼られるのはどうも思わないが、人に頼るのはどうも苦手だ。そういう人はどう考えているか、と胸の内を言いますと、人に頼る人や図々しい人が、なぜそんなことを平然とできるのか不思議で仕方がないと思っております。人から時間を平気で奪える人、自分の感情を顔にはっきりと出し、(時には意見までして!)周囲に不快な思いをさせる人、溜息をつく人、音漏れに気付かない人、待っている人がいるのが分かっているのに急ぐ素振りを見せない人、深く相手の気持ちや立場に立とうともしないでスパッと何かを言い切る人、周囲や目の前の相手の空気や気持ちを鑑みず、コミュニケーションを図ろうとしない人、そういう人にはなるまいとして生きる。そうするとどうなるか、基本的に人に合わせ、自己主張を避け、受身の姿勢でもって人と接するようになる。つまり、基本的に嘘の皮を被って生活をしている。そうすると本音と建前のギャップに苦しむようになり、本音を小出しにする、人が離れる。余計にごつい皮を被る。本音の場所がわからなくなる。人を煩わせることが最も忌み嫌うべき所業だからそうなることは避けられない。でも、人に迷惑をかけることをなんの抵抗もなくでき、朗らかな表情で感謝の意を述べられる人が健やかな人なのだ。僕にとっては悲報が過ぎる。

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ただ、人間、人に頼らなければならない時が必ず来る。そうなった時、人に頼ることは恥ずべきこと、申し訳ないことだと思っているために自分で処理できるかのギリギリになるまでやりってしまう。これは人の手は煩わせてなんぼと考える人々にとっては寧ろ甚だ迷惑なのだ。そういう齟齬が積み重なると、「人に頼る」を禁忌としている人々が最も恐れる、人に迷惑をかけざるを得ない状態が慢性化し、自分との折り合いが付かなくなるのである。

そもそも人に頼ってはならない、という考えでそこそこ生きていけるのは、一人である程度のことができるということだ。そういうプライドが他者の介在を許さないことにもなるのだが、そもそもプライドがある/なしなんてのは俎上に乗せること自体が馬鹿馬鹿しいと思う。プライドは砦で、前提だと思う。内的自省でどうこうできるようなものじゃない。環境が変わったり、経年変化していくしか、ないと思う。かなしいかな。同じ人でも環境によって大きくその見え方が左右されるだろう。それはみんなの経験の通りだと思う。

就活で体育会系が強い、というフレーズを聞いたことがある。僕がこれまで出会ってきたチームスポーツ経験者は確かに、人に迷惑をかけることに慣れている人が多い。他人のミスを自分が拭い、自分のミスを誰かにカバーしてもらうことを繰り返すからなのだろうか。自分の場合、幼い頃打ち込んだ野球でも、ショーバンを投げたり、エラーをすると、迷惑をかけているんだという強い意識が出てきてしまい、他人の手を煩わせることにますます勇気がいる。(その点学問は、一人で打ち込める点が楽で、成果は全て自分に起因するものなのでやりがいがある)人に嫌われたくない、とか、人にいいように思われたい、はもっと後の話だ。自分は自分、他人は他人という考えが根を張っている。内と外の意識が強すぎるために、他人を信用していないのかもしれない。

自分の弱みを曝け出すことも上手くできない。自分の弱みを曝け出すことはすなわち自分の足りないところを補完する誰かの存在を認めることになるからである。自分のために誰かが何かをすることを避けたいがために自分一人でできると思っていたい。無理やのに。

「あんた変わってるで」の言葉が自分を閉ざす一要因になっている気もせんでもない。幼稚園の頃から周りとの調和を図るのに苦労してきた。みんなが楽しそうにしていることが分からない。時にはみんなが作っていた砂場の山を破壊した。猫のフンを拾って楽しそうにしている人に投げつけた。そないして距離を時々見誤りながら、あくまで正当な人として評価されながら生きてきた。そのギャップは自らが一番わかっているのだ。みんなが楽しそうにしているから楽しそうな顔を作る、内心では何がおもろいねん。内心で一回思ってたら外面が良くても一緒なんです。それなら最初から人に合わせた方が早い。8割の人が楽しいと思ってるんやったら世の中的には「楽しいこと」なんだろうと思った方が早い。自分の意見を殺す癖もこういうとこからなんかなあ?自分は何もしてないのに誰か自分をわかってくれる人が見ていると信じてる。自分には何か他人とは違う感性が備わっているのではないかと周囲の期待と自己の感性との擦り合わせをずっとしていたように思う。冒頭の話とも繋がるが、そういうところで独りが好きになっていったように思います。本を読む、音楽を聴く、漫才を観る、これは面白い、おもんないと評価することは誰にも邪魔されない。誰の意見も聞かなくて良い。自分の言葉で消化してまた食べて咀嚼して、ぐーすか寝て、それをただできていれば楽しかった。

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『性格が悪いに決まってんだから。幼稚園の時から狂ってんだからこっちは。』(オードリーのANN2017/10/28)

自分一人でやれると思っている自分はどうやら結構抜けていることが多い。前に勤めていたバイトの店長は「お前は人に任せている」と言い、その言い草のあまりの威厳ありげな様に自尊心を抉られた。今でも毎日のように反芻しては自己を顧みている。人にやらせないように一人で突っ走ることはすなわち、他人が後ろから微修正をしてくれているということに気付かされた。僕が運んでいるスープがぽたぽたとこぼれ、誰かが後から黙って拭いてくれているようなイメージ。それならこぼれてるよと言ってくれれば次からこぼれないよう細心の注意を払うし、素直に謝るのに。そうじゃない、こぼれるのは仕方がないから「こぼれるかもっす!」という隙を最初から見せろということらしい。きついかもしんねえ!

人の考えていることが分かりすぎるような気がしてしんどい。当たっているかは当人にしかわからないが、浅はかだな〜と思ってしまうことは多々ある。なんで適当にその場凌ぎの嘘をつくのか、どうして露骨に感情を表に出すのか。もう本当に分からない。なぜ深く考えないで安直な考えを口にできるのか。なぜ人が言うことに顔をしかめられるのか。なぜなんとなくの好きという気持ちで人の前で好きだと言ってのけられるのか。なぜ中身を深掘りしないのか。そしてなぜ、そっち側の人間が"イイ"とされるのか。皺寄せが来てるぞこっちには。

捻くれ者に対しての社会の許容度は引くほどに低い。自信がないものは取るに足りないものとみなされる。駒になることを厭わずにできる人を斜向かいから見て、そうなるまいと自制しているから、そらどこにも所属できずに日々を過ごすことになり、そうした感情が自己を作り上げる。劣等感や罪の意識を背負わなければならない。内向的で、周囲の意見はしっかりと聞き、絶対にこの場で言っては場を乱してしまう意見をひた隠しにしながら生きている人はあんたらが思ってる以上にエネルギーに満ち満ちているからな!ということだけは表明したい。

努力至上主義を掲げている人は他人に努力を強要してくる。生まれ持った才能や性質、運の差に打ちひしがれている人にこそ、彼らは努力を強要してくる。運命は努力で変えられると本当に思っているから、自分は努力をしている、と思い込んでいる。そういう人に限って並外れた才能を持った人を手放しで褒めたりする、そういうものを嫌な顔ひとつせず享受していたりする。ほら、ちゃうやん。生まれ持ったもんが。運が。気付いてるのに知らんふりして綺麗事言うなよ。気付いてへんのかもしらんけど。

どうやら僕は常に社会にいらいらしている。