もっとわすれる!

面白かったテレビ・YouTubeについて書きます note▷ https://note.com/131_taka

遠野遥「改良」を読んで ー人間として、ヒトとしてー

f:id:takaabgata:20240420121656j:image人間は、怒りに支配されてはじめて動物としての可能性を最大限発揮できるのではないかと思うときがある。それはこんな作品をはじめとする「アート」と落ち合う瞬間だ。遠野遥の作品には、社会的動物としての人間と動物としてのヒトの相反する二面性がスクラムのごとくぶつかり、じりじりと押し合う様が描かれる。社会的に要請された「普通」や「当たり前」といった不文律と成文律の「ルール」を自覚的に実践しながらも、正解のない「美しさ」へと向かう主人公の姿は、高度に文明化した現代を生きる我々が諦めざるを得なかったヒトの本質を体現しているように映る。

 


"社会側からの要請を自覚的に実践"することを遠野はこれでもかというほど克明に描く。

本作では、デリバリーヘルス店の女性を家に呼ぶ際、主人公が逡巡するシーンにおいて、

 


たぶん、事前に言っておかなくても問題はないだろう。禁止事項のページにそのようなことは書かれていなかったし、不潔でさえなければ、ズボンを穿こうがスカートを穿こうが客の自由のはずだ。

 


とある。「〜だろう。」や「〜はずだ。」と、社会の要請と己の考えとに折り合いをつけながらも自身の行動を「客の『自由』」だからという理由で実行しようとしているところに現代社会的人間の側面がある。

 


また、コールセンターで働く主人公は電話をかけてくるクレーマーたちに対し次のように語る。

 

私は彼らに対して、怒りを覚えることもなければ、申し訳なく思うことも共感することもなかった。そして私にはどうも、下手に感情を差し挟まないほうが、かえって適切な応対ができるように思えてならなかった。

 


都市を生きる人間が恒常的に行っている「自らの感情を殺す」・「他者の感情を見殺しにする」の姿勢が主人公の根幹にある。社会の要請をそつなくこなす人間の表面の営みと、抱いても無視されるあるいは大きく社会を逸脱して「あちら側」に転落しうるヒトの内面上の渇望とが主人公の心の中で交錯している。

 


主人公はヒトの渇望を見落とすよう構造化された現代社会において、つくねとカオリという2人の女性と心理的に深く接触しようと試みる。ここで示されるのは、「人間は根源的には他者を求めている。記号でなく、自分にとって交換不可能な他者を。」ということである。

自他の渇望を看過せず、人間としてだけでなくヒトとしても強く生きたいと思う。

 


普遍的なテーマに対して小細工なしの日本語で愚直に立ち向かう作品で、大好きでした🩵

今日で学生が終わり明日から社会人になる!

卒業式に誰かに貰った花束を抱えて写真を撮ることも、バイト先の人たちにデザートプレートで見送られることもなかったけれど、今日で学生が終わり明日から社会人になる。

 


体じゅうの卑屈さと鼻持ちならなさをわきがのように撒き散らしながら上京した2019年4月から5年の月日が経った。今になって思えば悩めるだけの体力や純粋さがあったのだと親心にも似た気持ちで当時の自分を振り返ることができる。サークルの新歓のチラシを貰うことがなぜかとっても恥ずかしくて俯きながらキャンパスを歩いた。ユニークさの欠片も無い話をさも人生経験豊富そうに語る先輩の話をお利口に聞く自分が誰かに見られているのでは無いかという自意識に苛まれ、先輩の話を聞く自分を内カメラで隠し撮りしてなんとか崩壊しかけの自分を保った。地元に帰れば親しく話をできていたはずの友人たちがお酒やタバコといったアイテムを手にして人が変わっているように見えた。アルバイト先では完全に社員に舐められた。舌打ちをされ、クソみたいな言葉を言われて泣きながら親に電話をかけたりした。全く大人では無い中身に対してそれなりの大人らしさを求められるギャップが苦しくて深夜、散歩しながら芸人のラジオに耽った。眠るほどでもない一日にも夜があった。誰と話していてもこの瞬間がもう一度あればいいのにと思えるような時間が来ない気がしていた。誰かの行動や言動に物足りなさを感じて即席の知識で自分の傷を癒した。あらゆる大学生らしいことから逃げたかった。今思えばそのことが一番大学生らしいことだったのかもしれない。

 


大塚・帝京大学駅から少し歩いたところにある家から見えたのはあらゆるものさみしさを一手に引き受けたような殺風景な川沿いの風景だった。京王堀之内駅までの20分の道中にはブックオフやゲオ、スタバやマックなどがあった。それらの店がその時の全部で、全部の景色の中心に自分がいた。夜、決して誰とも会いたくはないけれど、不特定の誰かとすれ違わずにはいられない気持ちを暗い音楽でやり過ごしていた。

 


今でも思い出す友人が数人いる。常に寝起きのようなしまりのない顔をしていた僕に何度も連絡をくれてキャッチボールをした友達、夜まで知らない場所を連れ回してくれた挙句お家に泊めてくれた先輩、夜な夜なお酒を飲みながら映画や本や音楽のことを話した人たち、今の僕が会えば、もっともっと色んな気持ちや情報を交換できたんだろうなあと思う。それでもあの頃は色んなことが感動的でどんなことにも感傷的だった。色々なものがとにかく胸を打った。しょうがない。シド・ヴィシャスリアム・ギャラガーを心に召喚させて歩いていたような時分に近寄ってくれた人がいるだけでありがたいなあと思う。

 


ハンナ・アーレントがいうには「さみしさ」と「孤立」と「孤独」とは違っているという。「孤独」になるためにもがいていた「さみしさ」の期間があって(それは今も時々やってくる)、それは他人や自分を理解するために費やした時間のようにも思える。自分なりに色々学んだ気がする。専攻の日本文学も楽しかったけど(そんなに真面目に学んでいない)、親元を離れた東京での生活、3回の引っ越し、カナダで過ごした1年間。色んな経験を経て、少しずつ自分なりのこの社会のサバイバル方法を体得した。学んだことは、

 


自分に誤りがあること、認知にはさまざまなバイアスがあること、最善を選んだと一旦信じてみること、コントロールできない事象に気を揉まれすぎないこと、合わない人がいるということ、だけど合わない理由やその人を構成したバックグラウンドについて思いを巡らせることを怠らないこと、気分には従うこと、直感をかなり強く信じている自分をなるべく見逃さないで時々立ち止まって論理的に考えること、好きな人には手段を尽くして伝えること、人の中にはそれぞれ正解があって自分のものとは相容れないこと、人を所有することなど不可能でどこまでも他人であるということ、人の意見や考えを尊重する大切さ、自分のことをリスペクトしない人に使う時間は勿体無いこと、何かに没頭している時には嫌な思考が止まるということ、それが一種の逃避であることも時には認めること、信仰やルーティンの意味、あいさつの大切さ、時に見えないものに感謝すること、ただの偶然を時には奇跡だと呼んで誰かと喜びを共有する感動のあまりの大きさ、小さなものが持つ偉大さ、コンビニはスーパーよりも高いということ、引っ越しにまつわるエトセトラ、自然の摂理と大胆に割り切ってみること、人の胸を打つものにはある程度の類似性とそれぞれにユニークな偶然性があること、言語の神秘さ、一度犯したミスは反省をすべきであること、人に自分を舐めさせてはいけないが自分が人を舐めるのはもっといけないということ、失敗が起こる前でも自分を戒め行動に移せること、常に自分という物語を編んでいくことの大切さ、

 


思いつく限り上記のようなこと(+α)を大学在学中の五年間に学んだような気がする。これらが絶対的であると過信せずに、常にあれこれを疑って想像力を働かせていたいと強く思う。過去に書いた文章を振り返ろうなどという気にはなかなかなれないが、そこに葛藤の軌跡があるんだろう。今後ももっと多くのことを捨てて学んでいきたい。そしてさいごに、これからも「色んなことがありました」に収斂させないために、こうして書き続けていく。

 

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大塚・帝京大学駅のあの川沿い

九段理江の作品が面白いのは、わたし、がすでに面白いからだ、という物語

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九段理江の文学作品にこれまで見聞きしてきたもの/ことからは一線を画した新鮮な感動を覚える。Wikipediaによると、彼女が世に放った作品はわずかに六つであり、『北國新聞』2023年2月25日に寄稿された「彼と彼女の間に投げる短い小説」以外の五作品を読破した今、顔面を清潔なグーで殴られたような感動のしぶきの一粒一粒を書き起こしておくことにする。

 


2024年3月14日午後7時現在、都営バス上野公園行きの上で読んでいる「しをかくうま」は、一昨日、文藝春秋から発売された九段理江三冊目の単行本。JRAに登録される競走馬の名前の字数が九文字から十文字に変更される、という事象が物語の下敷きになっている。芥川賞を受賞した「東京都同情塔」同様(トウキョウトドウジョウトウドウヨウ←発声推奨!)、現在は存在しない世界やルールを描いている。これらの九段理江の作品の背骨は「今はない/今ある」の微妙な線引きだろう。「今はない」世界を「今ある」とすることができるのは数多いる動物のうち、我々ホモサピだけらしい。この「虚構」という概念が我々を発展させてきたという言説がある。文明の発展、神の死後(フリードリヒニーチェ)、近代的な「個人」によって培われてきた個人個人の精神世界の静謐な波紋が大胆かつ繊細に、わたし、の脳に届く。感じられる。希望の意味が束の間わかったような気になる。「物語」という仕組みそのものが「今はない/今ある」を曖昧にし、わたし、たち、の想像力を掻き立てるものだ。その上で、九段理江の数少ない作品は、この曖昧さを再び、わたし、に強く認識させ、それらが「物語」ひいては「虚構」の楽しみ方の手引書として差し支えないものであること、それほどの感動を、わたし、に与えている。その感動の詳細を以下に書き綴る。

 


その感動は言い換えれば以下のようなことになる。九段理江の作品を読むと、自分の想像や思考の可能性の拡がりを感じられる。アートや創造というのはそうした可能性の実践と壁打ちの結果として表れるのではないか、という仮説を持つ。そうであるならば、わたし、の創造性の指向は、他の人が聴覚や味覚や視覚といった感覚に訴えるところ、言語に向いている、と考えることができる。九段理江作品の根底には、言語に向けられた極めて丁寧で他者には持ち得ない鋭い眼差しがある。言語一つ変われば、今両足で立っている地面が海底になってしまう、そんな言語にまつわる危機感と、暴力性に際して湧き起こる茶色い欲求とが、わたし、をたのしませる。そういう感動。

 


「自分の想像や思考の可能性の拡がりを感じる。」と先に書いたが、これは幻想である。、わたし、たち、はまるで、わたし、がこの世において素晴らしく価値のある人間だという幻想を抱こうとしながら、それを信じられる時には脳内のドーパミンオキシトシンを幸せと呼んで疑おうとせず、そうでない時には何かを憂いたり人に強く当たったり、社会側の構造の脆弱性や不確実性に不満を持つ。マークザッカーバーグアルベルトアインシュタインポールマッカートニーアサクラミクル(彼らが本当に"何かをしたのか"は知らない)を超えるような万人に対する影響力は、恐らく今後の生涯を全ベットしても持ち得ないことは確定している。そういう人生の行き止まり感を忘れられる、というよりはむしろ心地よく感じられるのが九段作品の妙である、と、わたし、は思う。300回転何の音沙汰もなかったジャグラーが、301回目にペカる、その時の生きている実感が、言語が形を変えて、わたし、の報酬系に訴えかけ、わたし、を人間たらしめている、とさえ思う。

 


幻想だ?希望を持つんだ。など、己の生涯の終着点も見ていない人が放ちうる言葉に返すのであれば、「この生活を面白がる」ことが、わたし、がこの神なき退屈な今を引き延ばす理由になるかもしれない、と、わたし、は思う。「この生活を面白がる」、九段理江はその方法の一手をくれる。生活の糸のほつれ、引っ張れば単調な一枚の布に戻ってしまうような生活の糸のほつれの見つけ方のコツを、言葉を通して脳に直接語りかける。だから、わたし、は言語も意味もわからない海外アーティストの楽曲をわざわざ外界のノイズをキャンセルしてまで大音量で聞いて歩くことができる。そこにある種の気持ちよさを認識することができる。やはり生活は言葉の上にある。己は無意味である、誰にとっても無意味である。だから言葉を使って、物語として、己に意味付けをする、己を社会に意味付ける、人間関係で己のポジションを意味付ける、それらのラベルをアイデンティティと暫時的に呼ぶ。意味のない己の生活をなるべく面白がるために、言葉は存在する。言葉では言い表せないことはあるような気がしているが、単に己の言葉を用いた探究の不足である。言い表せないな、で終わらせるのは我々の弱点である。言葉の限りを尽くして言い表す努力をする。その行為を怠らせる一端を担うのは、スマートフォンをはじめとする媒体がもたらす本来のマルチタスキングとは縁遠い単なる注意力散漫で、個人個人がbot化した現代社会を生きる我々人間は、せめて液晶の上に己の言葉を書いてなんぼだと思える、今は。

 


書くことは思考の整理になるのか、タイピングは果たして「書く」ことに当てはまるのか。そんなことを考えるより、タイピングによって生まれた言葉の繋がりは、これまで誰かが書いたようでいて実は個々にオリジナルなのかもしれないと思うことで、希望を見出してみる。人工知能の登場によって、そういう意味のないオリジナルを模索する愉しさを人類は手にしたのかもしれない。「東京都同情塔」は、何か目の前の事象を面白がるには、自分の言葉で考える必要があることを、わたし、に教えた。個々の作品への感想は避けるが(それはこれから物語としていく)、言葉で考えること、それを人に晒すも隠すもよし、Let me think in my own words (ーmy own wordsが思い込みであれ、その都度他者の言葉と言葉を組み合わせたオリジナルを生み出すことー)の繰り返しが、今、わたし、に必要不可欠だと信じたい。

日記⑩+⑩+⑩+⑩+⑩+⑩+⑩+⑩ 雑文 All At Once

消費をやめて、形の変わらないものを愛でる練習をしたいです

 

さみしさを感じるから書くのか。ものごとの美味しい部分だけを吸ってすぐに飽きる(≒消費する)からさみしいのか。同じものや人を、複数の視点から、長期的に愛でるという忍耐力やその面白みを知らないのか。生まれた時点で人は孤独か。人によって孤独の感じ方(強弱)は違うのか。

 

そういうことにぶち当たって本を読みたくなる。これは果たして消費か。(1月初旬)

 

 山手線の発車ベルが聞こえるところにいる、よく肥えた鳩がとぼけた顔で顔を突き出しながら歩いている、店内ひどく混み合ったハングルの名前の雑貨店の前を過ぎる、工事現場に置かれた缶は太陽の光を受けてボルドーとゴールドの色を放っている、異国の朝の寒さの中をとても不安そうな表情で歩く観光客、新しくできたドーナツ屋を通る時、首をたくさん動かしてその店が一体何なのかを把握しようとするばあさん、山手線に3回追い越されながら一駅分歩いた。

 

このような文章を書いているとき、心地よい。「まなざす」ということと「視点が慌ただしく動くこと」の融合は割と根幹にある悦びかもしれない。

 

 千代田線、明治神宮前(原宿)のホームにあるベンチの下に幼児用の手袋が落ちているのを見た。白色のそれはもうすでに薄汚れている。

 行くのがとってもしんどかったバイト先の店長、今日が誕生日らしい。LINEの機能。

 

住んでいる場所によって感じることは、当たり前だけどその場所でしか感じることはできない。住めば都と言うよりは、住めば湧くよね愛着が、という感じで。僕は大阪もバンクーバーも八王子も新宿も大好きですが、八王子には特に思い入れが強い。恐らくは独りで色々考えていたからだろう、からだの周辺について色々。iPhoneのスクリーンタイム的な考え方をすれば、どこにいても耳と目と鼻は24時間(眠っている時は便宜上)ということになるんだけど、八王子で過ごした期間は時にしっかり目と耳と鼻と肌とをかっ開いていたような感覚がする。例えば大阪なんかでは慣れすぎていてほとんど「目が見えなくとも、姿形色が分かる、ような気がしている僕ら」になってしまう。

 

精神的な健やかさについて考えを巡らせる。本を読むのに必要な精神的な健やかさ、大作と呼ばれるような映画を見るのに必要なそれ、洗濯物を畳むのに必要なそれ、会社の扉を開ける瞬間のそれ、軽口を叩く他人と相対す時のそれ、種類としてさまざまで、崩したことのある人にしか分からない「よっこらせ」感ってのがある。

 

〈自分のことがアホになったと感じる〉

・同じことについて長く考え色んな答えを出すことができなくなっているところ

・疑問を持ったり興味を持つ分野が減っているように感じるところ

 

【2月に入る】

幼馴染と井の頭公園を歩いている時に自分が言った「生活が趣味」という仮説について考えている。

 

鑑賞は趣味としてスタイル

音楽鑑賞が仰々しく見える。結婚できない男阿部寛演じる桑野がステレオを室内の左右に置き、目を瞑って音に身を委ねる行為、か?

 

飾らない自分を発見したいときには世代の違う人と話せば良い。できればその人の趣味や生活を知らなければその方がなお良い。同じフィールドにいない方が良い。"どう思われたいか"が無い人に話すのが良い。

 

オスカーの舞台上、「エブエブ」ウェイモンドの笑顔が辛い!アジア人は白人をイキらせるために存在してるわけじゃないと思う

 

昼に新宿御苑に程近い街中華で食べた回鍋肉があまりに油っぽくて「からだ健やか茶W」を飲んだ。

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日記⑩+⑩+⑩+⑩+⑩+⑩+⑩+⑨ 猫戦のライブに行った/Laura Day romanceVo.井上花月の魅力(順番前後します!)

2023年12月20日、猫戦のライブに行きました。猫戦が2022年に出した1stアルバム『密・月・紀・行』は、既出の『鶴』や『ヴァーチャル・ヴァカンス』を含めた10曲(ヴァーチャル・ヴァカンスはhoneymoon ver.とオリジナルの2つ収録)からなるアルバム。このアルバムは、頭からつま先まで猫戦にしか出せない癒しの栄養素を詰め込んだようなアルバムだった。僕は犬派やけど、猫派の人が日々猫から感じているであろう癒しが、猫戦を聞いている時には感じられるような気がするのです。

ギター、アップライトベース、ピアノ、ボーカルというドラムレスな四人体制。クリスマスツリーをバンドセットの後方に配置し、オレンジや黄色といったあたたかな光と客席までの距離の近さがとっても親密感を高める。楽曲の間(時には楽曲中も)にはトークが入り、メンバー同士の日常の感じがよく伝わってくる音楽も雰囲気もあったかいライブやった。ライブハウスでありながら食事も提供していた会場では、演奏中にも番号札を持った人を店員さんが良い匂いを漂わせて探すシーンが何度もあった。トークの多さと親密感で、さながらディナーショーの様相。猫戦に求めているものは硬派とは真反対にあるようなものなので、心地よかった。立命館大学で組まれたということもあって関西弁なのも親しみやすい言うんか、同じ言語使ってる分、もっとナチュラルにメンバーの個性が入ってくる感じがした。

四人体制で音源とは異なるアコースティックVer.だったライブは、僕が22歳になったからこそ良さが分かると言うんか、昔やったら単調で眠なってまうで、やったのがやっと少し良さが分からせてもらえる年になりました、おおきにというのが率直な感想。局長として穏やか、の中のベースのうごめきが、はっきり音として存在してないリズムの裏や表に「んぶっ」とハマる感じ(ああ、これのことをグルーヴと言うんやろか)や、ピアノが五線譜の上を小学2年生の遠足くらい落ち着きなく動き回る感じとか。それらがハーモニーとして(ハーモニーとしてとか言うてる笑)、そこに居合わせた人には”一曲”として還元されているさま、やっぱライブというのは体感、が本当みたいなとこあるね

新曲「キューティー・ハニー・メロマンティック」にはBROTHER SUN SISTER MOONのボーカルの方とLaura Day romanceのボーカル井上花月が現れて(!)コーラスをやった後、そのまま猫戦とその二人で桑田佳祐の『白い恋人達』を演奏してくれた。これ、っんまにやばかった。録りたかったなあ。一回偉そうにさせて欲しいねんけど、井上花月の時代がもうすぐ来ると思う。何を歌ってもあの人の曲になる。鼻にかかったような声でネチっとするかと思ったら、転校してしまう友達の別れ際の挨拶くらいカラッとしてもいる。例えば"Sad number"のようなHomecomingsを彷彿とさせる曲がある。それは2010年代からの女性ボーカルインディーロックの系譜(チャットモンチーやきのこ帝国から派生して、yonigeやChilli Beans.に繋がってる、と僕が思っている)に位置付けることもできるねんけど、それを特別にしているのは井上花月の声、声、声!「春を連れ去ってしまえば」と言う歌詞があるねんけど、この「ま」の音が聞いたことない声色。

2020年に出た1stアルバム『farewell your town』はジャケットから素晴らしいけど、まるでジャケットのイラストのような中身の曲の色彩の豊かさ。ポップソングの作り手としてのセンスが1曲目から12曲目の"rendez-vous"まで、全部に詰め込まれている。聞かせる曲、例えば③girl friendとか⑩FAREWELL FAREWELLに声の良さがもろに現れるものはもちろん、②・⑤・12、あたりのポップ!カラオケで歌いたい!みたいな曲でもお大きすぎる存在感でLauraの曲になる。

かと思えば2022年に出した2ndアルバム『roman candles 憧憬蝋燭』はこちらもジャケットの写真のような、川辺の憧憬や小さい頃の寝る前、もう一人で寝なきゃなんだな、と思うような寂しさと一握りの勇気、ベッドは気持ちいいな、みたいな感情になる曲。

もし今後「そばかす」みたくアニメタイアップでキャッチーな曲が出たら(それは近い将来やと思う)、Laura Day romanceはガガーっと遠くに行っちゃうと思う。今も近いわけちゃうけど。来春の802の春のキャンペーンソングに出て欲しい人ランキングでぶっちぎり一位!

日記⑩+⑩+⑩+⑩+⑩+⑩+⑩+⑦ 今年のテーマは健康と爆笑でーす

 人間は生きてきた時間に比例して前進するという考え方が僕らの前提にあるような気がする。歳を取るという全ての人間の目の前に平等に引かれた時間に並行して、思考が研ぎ澄まされ、愚かじゃなくなっていくという考え方が前提に。若い頃は失敗がつきもので、いずれは惑わなくなったり、天命を知ったりしていくという考えが古くからあるようだ。これは前進の前提である。そうなんだろうか。知らないことが減っていく、試行回数がカンストに向かっていく、到達しうる合理性の極限にまで到達する、それくらいのことではなかろうか。試行を繰り返そうが、一旦立ち止まれない人はいつまでも進化しない、前進しない、そういうことではなかろうか。そんな風に思う。

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年の功を感じることなら多々ある。例えば高尾山口の駅前での一幕。シニア男性が「ごめんね、遅れた」と言うのに対してシニア女性が「早く来すぎたわ」と返す。この居合には無駄が一つも無かった。また、ハッとさせられた教授の一言がある。「そのアーティストは大衆の反応をあてにするんですか?」。「あてにする」というフレーズの全く新しい用途だった。卒論で小沢健二を研究していた時に教授に聞かれたことなのだが、何者であるかを問わず、人は「あて」にしているものがそれぞれ違うな、と思った。アーティストであればヒットチャートをあてにする人、自らをあてにして孤高に表現する人。中学受験生であれば「校風」・「共学かどうか」、就活生の次元ならば「給料」・「福利厚生」・「積極的にそのことであればお金を稼ぎたいと思う何か」、社会人なら「やりがい」・「環境」etc…と「あて」が変わっていく。人間関係においても信頼できる人からの本音をあてにする人、尊敬している人からのお世辞が明日の活力になる人、恋人の些細な一言に胸を詰まらせ、湯船の中からひょっこり出た膝をただ見つめるだけの時間を過ごす人、それぞれである。そうした一喜一憂の試行回数をカンストへ向かわせながら、僕たちは自分の思考が深まっている、高次に向かっている、という錯覚に陥っていく。(それは自分を守る殻を培うことでもある。)

 以上のようなことは、今手に入れられる新しい靴や新しい携帯がほとんど進歩していないのと同じようなことだと思う。新しい靴や携帯を持つと気分がすごく変わる。色やカタチ、容量や画質が異なっている。それはもはや大した進歩ではない。スライドである。同じ思考を持ち続けると自分によく馴染んでくる。どこへいく時でもそれさえ身につけていればほとんど太刀打ちできるようになっている。昔は解決できずクヨクヨ悩んでいたことだって、慣れ親しんだ思考だと解決したように感じさせてくれる。それで時々誰かの言葉(本や日常)にハッとさせられて、ちょっと思考にヒビがはいる。刷新したり、ドッキングさせたりする。考え方が新しくなれば気分が変わって物事へのアプローチも変わる、前回の思考では解決できなかった、或いは看過していた物事に正面からぶち当たることができるようになっている。試行回数はこうして増えていく。成功体験も増え、成長したような気になれる。言い換えれば、時間が経つにつれ、失敗を失敗とせず合理化したり、失敗後の体験と失敗とを一連の物語とすることが可能になっていく。

 しかしここで僕は、ほとんどどんな壁も過去の誰かが経験している、ということを言いたいわけではない。この苦しみ、ここにある他にはない質量の苦しみは固有のものであって、定量化して再現可能な、他者と全く同じ苦しみとされては、たまったものではない!僕にできることはいつでも、僕固有の物語として言葉を紡ぐこと、他者に伝達すること、或いは僕固有の物語として誰にも語らないという選択をする事だ。年齢を重ねていくという一方通行のレールが全てのものに対して平等にあるのであれば、そのレールの上にできるだけ多くの目印を残していく作業が自分にしかできない、最も有意義な活動であると、僕は思う。

 

f:id:takaabgata:20240104173828j:image 人間は物語を好む。脈絡のない事象同士をある共通のカテゴリー内で語ることで、簡単に理解されたり、感性に訴えかけやすくなるのだろう(例:「新年早々地震、飛行機事故、テロって令和6年さすがにヤバいだろ・・・」・「M-1ラストイヤー」etc)。物語化することはかえって短絡的で陳腐になる危険性をはらんでいることも肝に銘じなければならない。人間が定めたものの範疇に全てが収まるわけがない。パターン化というのは脳が好むもので、逸脱は即おそれになる。0〜9と本に番号を振るのは図書館に任せておいて、もっと個人的な固有の物語をお互いに長い時間をかけて咀嚼する時間が、ひとまず僕には必要だと思う。

 

追伸:今年のテーマは健康と爆笑でーす

日記⑩+⑩+⑩+⑩+⑩+⑩+⑩+⑥

おっけ〜い調子良し。恵比寿駅はいつも曇りの空気を纏っている。それと焼き魚の匂い。

 

 12月23日

人に趣味を話す時、野球・お笑い・音楽と言うてるんやけど、これを言うのは実感に近いものを述べると言うよりはフックになるものを言ってる感じ。話を広げやすいものを話す感じ。大阪人・楽器をやったことがある・最近街で見た芸人etc。

「人に話す」と「文字を書く」と「タイピングする」と「フリック入力をする」時の自分はそれぞれ少しずつ違う人間のように感じる。

例えば話す、って人間の行為としてすごく自然のように見えるけど、脳ではどのようなことが起こっているのだろうか。英語を話す時、限られた語彙(例えば「コウモリ恐怖症やから見せんといて」と言いたくても"恐怖症"がパッと出なかったりする)で話すと、やはり僕の中で「コウモリ恐怖症」は存在感を弱める感じがする。それでもコウモリという大きい概念の丸と恐れという感情の丸は明日も明後日も存在するような気がする。因みに恐怖症はphobia。一方で日本語の中でも「虚数」について話してください、と言われたら途端に語彙力を失うし、そんなことは僕には話す必要もないように思われる。だから、持ち合わせた語彙だけでシンパシーを感じ合える人(価値観の合う友達)とつるんでいく。そのようにして似た語彙を持った集団が集まる。

文字を書く、これは手を実際に動かして紙の上に書くことを想定している。こん時は脳の回転に腕の動きが追いつかない。書き殴りながらも「読める字」を心がけようとするとなおさら腕の速さはおっそい。たまーに手紙を書くことがあると、文章のぐにゃぐにゃさに嫌になる。伝えたいこと、と言うのは本当はなくて脳の中が腕の動きを通して整理されている感覚。一回ペンでぶわっと書いてみて、それをスマホフリック入力して読んでみると考えてもみなかったアキュレートなことが書かれていたりする。全体を俯瞰して書かない時は、収まりの良い文章を心がけていないから、ゴリ押しで潔い文章が生まれていたりする。

タイピングはパソコンのキーボードで。大学四年になってほぼ毎日平均5時間くらいはパソコンを触るようになって、結構脳の回転とリンクしてきた感じはする。ただこれも手書きに似ているところがあって、1回目に書いたやつを読み返してええ感じのこと書けてたためしが無い。気取って「なおかつ」とか、「しかし」とかがようけ出てくるけど、全然「なおかつ」の意味が通らん時とかがしょっちゅうある。ただ、他の作業と異なるのは唯一両手を使って文字を書いていると言うこと。タイピングして乗ってくると気持ちよくなって身体ごと前のめりになる感覚がたまにある。

フリック入力、は1日の中で呼吸の次にやってることかもしらん。1回目に書くときも(書き直しをしなくても)、なんとなく前後関係をみながら、少し立ち止まって考えながら、今まさに考えていることに一番近しい言葉を選べているように感じる。やっぱり1番速く打てるというのは、話す感覚に似ていて口語になる。口語になれるだけリズムが自分に近しいものになる。その分、人には読みづらいものになる。このように(どのように〜?)。そして消したいものは迅速に消して書き直せるというのも良い。

 


話す、書くというのにも色々あるけど、「話す」が1番危険。