消費をやめて、形の変わらないものを愛でる練習をしたいです
さみしさを感じるから書くのか。ものごとの美味しい部分だけを吸ってすぐに飽きる(≒消費する)からさみしいのか。同じものや人を、複数の視点から、長期的に愛でるという忍耐力やその面白みを知らないのか。生まれた時点で人は孤独か。人によって孤独の感じ方(強弱)は違うのか。
そういうことにぶち当たって本を読みたくなる。これは果たして消費か。(1月初旬)
山手線の発車ベルが聞こえるところにいる、よく肥えた鳩がとぼけた顔で顔を突き出しながら歩いている、店内ひどく混み合ったハングルの名前の雑貨店の前を過ぎる、工事現場に置かれた缶は太陽の光を受けてボルドーとゴールドの色を放っている、異国の朝の寒さの中をとても不安そうな表情で歩く観光客、新しくできたドーナツ屋を通る時、首をたくさん動かしてその店が一体何なのかを把握しようとするばあさん、山手線に3回追い越されながら一駅分歩いた。
このような文章を書いているとき、心地よい。「まなざす」ということと「視点が慌ただしく動くこと」の融合は割と根幹にある悦びかもしれない。
千代田線、明治神宮前(原宿)のホームにあるベンチの下に幼児用の手袋が落ちているのを見た。白色のそれはもうすでに薄汚れている。
行くのがとってもしんどかったバイト先の店長、今日が誕生日らしい。LINEの機能。
住んでいる場所によって感じることは、当たり前だけどその場所でしか感じることはできない。住めば都と言うよりは、住めば湧くよね愛着が、という感じで。僕は大阪もバンクーバーも八王子も新宿も大好きですが、八王子には特に思い入れが強い。恐らくは独りで色々考えていたからだろう、からだの周辺について色々。iPhoneのスクリーンタイム的な考え方をすれば、どこにいても耳と目と鼻は24時間(眠っている時は便宜上)ということになるんだけど、八王子で過ごした期間は時にしっかり目と耳と鼻と肌とをかっ開いていたような感覚がする。例えば大阪なんかでは慣れすぎていてほとんど「目が見えなくとも、姿形色が分かる、ような気がしている僕ら」になってしまう。
精神的な健やかさについて考えを巡らせる。本を読むのに必要な精神的な健やかさ、大作と呼ばれるような映画を見るのに必要なそれ、洗濯物を畳むのに必要なそれ、会社の扉を開ける瞬間のそれ、軽口を叩く他人と相対す時のそれ、種類としてさまざまで、崩したことのある人にしか分からない「よっこらせ」感ってのがある。
〈自分のことがアホになったと感じる〉
・同じことについて長く考え色んな答えを出すことができなくなっているところ
・疑問を持ったり興味を持つ分野が減っているように感じるところ
【2月に入る】
幼馴染と井の頭公園を歩いている時に自分が言った「生活が趣味」という仮説について考えている。
鑑賞は趣味としてスタイル
音楽鑑賞が仰々しく見える。結婚できない男の阿部寛演じる桑野がステレオを室内の左右に置き、目を瞑って音に身を委ねる行為、か?
飾らない自分を発見したいときには世代の違う人と話せば良い。できればその人の趣味や生活を知らなければその方がなお良い。同じフィールドにいない方が良い。"どう思われたいか"が無い人に話すのが良い。
オスカーの舞台上、「エブエブ」ウェイモンドの笑顔が辛い!アジア人は白人をイキらせるために存在してるわけじゃないと思う
昼に新宿御苑に程近い街中華で食べた回鍋肉があまりに油っぽくて「からだ健やか茶W」を飲んだ。