もっとわすれる!

面白かったテレビ・YouTubeについて書きます note▷ https://note.com/131_taka

遠野遥「改良」を読んで ー人間として、ヒトとしてー

f:id:takaabgata:20240420121656j:image人間は、怒りに支配されてはじめて動物としての可能性を最大限発揮できるのではないかと思うときがある。それはこんな作品をはじめとする「アート」と落ち合う瞬間だ。遠野遥の作品には、社会的動物としての人間と動物としてのヒトの相反する二面性がスクラムのごとくぶつかり、じりじりと押し合う様が描かれる。社会的に要請された「普通」や「当たり前」といった不文律と成文律の「ルール」を自覚的に実践しながらも、正解のない「美しさ」へと向かう主人公の姿は、高度に文明化した現代を生きる我々が諦めざるを得なかったヒトの本質を体現しているように映る。

 


"社会側からの要請を自覚的に実践"することを遠野はこれでもかというほど克明に描く。

本作では、デリバリーヘルス店の女性を家に呼ぶ際、主人公が逡巡するシーンにおいて、

 


たぶん、事前に言っておかなくても問題はないだろう。禁止事項のページにそのようなことは書かれていなかったし、不潔でさえなければ、ズボンを穿こうがスカートを穿こうが客の自由のはずだ。

 


とある。「〜だろう。」や「〜はずだ。」と、社会の要請と己の考えとに折り合いをつけながらも自身の行動を「客の『自由』」だからという理由で実行しようとしているところに現代社会的人間の側面がある。

 


また、コールセンターで働く主人公は電話をかけてくるクレーマーたちに対し次のように語る。

 

私は彼らに対して、怒りを覚えることもなければ、申し訳なく思うことも共感することもなかった。そして私にはどうも、下手に感情を差し挟まないほうが、かえって適切な応対ができるように思えてならなかった。

 


都市を生きる人間が恒常的に行っている「自らの感情を殺す」・「他者の感情を見殺しにする」の姿勢が主人公の根幹にある。社会の要請をそつなくこなす人間の表面の営みと、抱いても無視されるあるいは大きく社会を逸脱して「あちら側」に転落しうるヒトの内面上の渇望とが主人公の心の中で交錯している。

 


主人公はヒトの渇望を見落とすよう構造化された現代社会において、つくねとカオリという2人の女性と心理的に深く接触しようと試みる。ここで示されるのは、「人間は根源的には他者を求めている。記号でなく、自分にとって交換不可能な他者を。」ということである。

自他の渇望を看過せず、人間としてだけでなくヒトとしても強く生きたいと思う。

 


普遍的なテーマに対して小細工なしの日本語で愚直に立ち向かう作品で、大好きでした🩵