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【映画】ソフト/クワイエット

日課のようにチェックしているpopeye webの「今日のTODOリスト」に掲載があり、ワンカット・差別・人間が一番怖い、という点に興味を惹かれた。

popeyemagazine.jp

あらすじ

ダイバーシティを重んじる現状に納得いかない差別的な白人女性6人が、「アーリア人団結をめざす娘たち」を結成。しかし、決起集会後、二次会のために立ち寄ったスーパーでアジア系の女性に会ったことをきっかけに、取り返しのつかない出来事が……という物語を全編ワンカットで描く。守るべきものがない人ほど凶悪になれるというのが、不気味だけどリアル。結局、人間が一番怖いと痛感させられるある種のホラーだ。(popeye webより引用)

 

感想

”ミッドサマー”ぶりに途中で退出することを考えたほど胸糞が悪かった。動悸が激しくなり、シートにきちんと座っていられない時間があった。

 

集団は怖い。"自分で考えること"を制限される場所って怖いと思った。
(洗脳のことBrainwashedって言うんやな)

「有色人種はみんな白人が嫌いだと声高に言うくせに、白人が有色人種に対して言うことは許されない。レイシストと口を揃えて言うのよ。」「彼女がブラウンだから私より先に昇進したのよ」「1776年に白人が作った国よね、アメリカは?」「今こそ白人至上の考え方を広めようよ。黒人の学校やユダヤ人のそれがあるように。白人にあってもおかしくないでしょ。」「WHITE LIVES MATTER」「多様性は失敗よ。」

こういった考え方が危なくて、よくないことだとは分かるんだけど、なんでダメなのかは各人が"自分で"考えないといけないと思った。僕は、「社会で他者をリスペクト・インクルーシブすることは、自分が社会的に同じことを受ける条件だ」と(今現在の段階では)考えるようにしている。

正確なことは忘れてしまったけど、
「私はただ良い人で、しゃかりき働きたいだけ」といったようなセリフがあった。「わたしらしく」生きることに本来人種は関係ないはずだが…
多様性を受け入れることは本来当たり前であるべきだが、まだ人々には「多様性を推進しよう」と能動的な意識があるゆえに、「白人を評価する=有色人種を差別している」・「有色人種を評価する=多様性を示すために白人が犠牲となった」と考えるのだと思った。真の平等が訪れる時は、能動の意識が無くなった時と言えるだろう。


能力や貢献度が数値化されて比べられる動きも増えそうだと漠然と思った。そうすれば偏見は結果に表れないし、機会も平等である。社会はより人の繋がりよりも数字を見る無機質にものになりそう。

日本では特に「日本人orそれ以外」の意識が強いとカナダへ留学しているときに感じた。ある種潜在的かつ無意識下で「この人は(父親も母親も、その前も、そのずっと前の先祖も日本に生まれた純血の) )日本人だ」と考えている。そこに何の疑問も持っていない。
海外国籍の人が増えつつある日本では今後議論は拡大するかもしれない。新大久保で生活するとより色濃くそれを感じる。

日本には多様な人に出会うチャンスが(人種という点で)少ないと思った。差別的な意識が薄いのは、そこに向き合うオポチュニティが日常において極めて少なく、たとえあったとしても「じぶんごと」と考えず、無意識のうちに看過しているからではないか、と思った。(日本に来ている留学生が「ジロジロ見られる」と言っていたことで、自分自身の中にも存在していた”無意識”を少し自覚した)

同じ白人のコミュニティ内でも貧富の差、子供の有無、過去、容姿において差別が存在していることを暗示するような描写も映画内には数多くあった。この映画の女性たちはどの世界をどんな人種で生きていても人を差別的に見るんだろうと思った。

同時に、そもそも資本主義が競争でもって成り立っているのだから、誰かと能力を比較して優劣を決めることは致し方ないのかもしれない。

「集団的な過激な思想は身を滅ぼす」というまとまりのいい終わり方をしているように感じた、A24の映画"SKIN"のような後味の悪さ(=鑑賞後、わだかまりと共に新しい疑問が浮かぶ)は無かった。

何がいけなくて、自分はどうすべきなのか、社会はどんな問題を内包しているのか、をもっと作品に組み込めたんじゃないかなとも思う。(単に僕の作品に対する解像度が低いことが原因かもしれないけど)


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