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日記⑩+⑩+⑨僕にできること

8月20日

リビングのソファベッドに横たえた身体を刺すような太陽の日差しで目が覚めた。空は青一色の晴れ模様。

日本ではサマーソニック2022が行われていて、フジロックのように配信はないものの、TwitterInstagramで現地の熱狂を超間接的に味わっている。今朝は、日本時間20日にステージに立ったマキシマムザホルモンking gnuのMCやその振る舞いに非難轟々のツイッター模様。(内容は気になった人で調べてください)

 

僕がこの件で感じたことは、日本がいかに多様性を認める社会に向いていないか、それに向けて必要な努力や配慮の多いことか、という何度も何度も議論されてきたことだ。日本人は概して(慨するということはともすれば日本人に見られやすい考え方かもしれない)僕たちは同じ日本人なんだという共通感覚に守られている。日本のパスポートを持ち、日本語を話し、日本人の両親がいる、そのことについてあまり深く考えない。ただ、カナダに来てみれば、「カナダ人」とひとことに言っても、文字通り世界中の国や文化や地域にルーツを持つ人たちがいる。概して何かを言える、ジェネラライズできるというのは幸か不幸か、共通項が多いからなんじゃないかと思う。

 

そういう一般的日本人の多さは、文化や伝統という点においてそのパワーを発揮する。が、今回はその文化の一端を担う音楽の場でことが起こったことがことだろう。

彼らがそういう振る舞いに至るのは、ひとえに「知らない」からだと思う。何が差別的で、何が人を傷付け、あるいは何が人を思いやるということなのかを「知らない」という状態が一番怖い。ただ同時に、なぜ「知らなかった」のかを考えなければならない、次に進むためには。

それは一つには先に述べたような「一般さ」が日本人からマイノリティの人に向き合う機会を奪っているからだと思う。「特別」と「普通」という二つの言葉でしか世界を観ることができない状態から、際限なく言葉が広がり続ける社会へと近づけていきたい。

全ての人たちが発話できる環境を作り、ぶっちゃけた話、何をどう感じているのか、話す機会を持つことで僕たちの想像力は少しづつ広がる。だから対話をして、柔軟な姿勢を身につけ、「もしかしたら」の領域を増やしていく。他人を尊重することは、自分が尊重されることと同じ一つのサークルにある、僕はそう思っているから。(図らずもまた対話の必要性を説いている)

先決はみんながみんな自身のことを安心して話せ、みんながそれに耳を傾ける社会づくり。何を感じているか、何に際して「アイデンティティが脅かされた」と感じるのか、そういうことは一つ一つひらがなを覚えていくような地道で単調なプロセスで進めていかないと。まだ言葉も十分に手にしていない僕たちが、何かを正しく捉え考えるなんてことは不可能なんだから。

 

共有している、という尊くて儚い気持ち。共感できることの素晴らしさ。このことに僕たちは時折目を眩ます。

例えばカタコトの日本語を日本人が話しているのがおもしろいと感じうるのは日本語が流暢に話せる人だけだろう。そのことで胸を痛めるのは、「日本のお客さんのために日本語を頑張って話してくれたのに、それをバカにするのは違う」と感じるからだろうか。

アメリカのアニメ「シンプソンズ」に日本人が出てきたときは、典型的な日本人の英語の話し方として「腹からハキハキ話す」という描かれ方がされる。それは恐らく英語話者にとって「誇張してるけどどこかあるあるでおもしろい」という我らがハリウッドザコシショウ傘下の「誇張おもしろ」が手法として用いられていると想像する。ここに誰かによって「悪意」が見出されれば、日本人への差別と捉えられうるのかもしれないが、僕がこれを見たときに感じたのは、「日本人の英語はそんな風に聞こえ一般化されているんだ」くらいのものだった。嫌な気持ちになんてなりようもなかった、だって英語話者にネイティブ以外の英語がどう聞こえているかなんて、英語ネイティブでない僕には分かりようもないのだから。むしろ、そのアニメを見たことによって自分自身の一部に気付くことができた。

「悪意」は、図らずもそこに存在してしまう可能性を孕んでいる。発した本人や、標的となった人にさえ気付かれない悪意が第三者によって発見されうる。全てのことに注意を払うことは不可能でも、「悪意」に際した時に、真っ向から向き合い、見つめなおす、その誠実さを保つことだけが僕たちが日々意識的にできることではないか。この世に生を享けた以上、そういう姿勢は自分を取り巻く全てのもののために止めてはならないと思った。

 

カナダに来て、ここには本当にたくさんの人がいて、彼らは彼らとして生きることを選べているように見える。彼らは彼らとして生きているから、発話や対話を躊躇わない。「カミングアウト」のハードルが日本より低いのだろう、僕の胸の中からも「あ、この人はカミングアウトというハードルを超えて今ここにいるんだ」という抱く必要のない気持ちが薄らいでいくのが分かる。バックグラウンドはもちろん大切だが、今目の前にいる人に目を向けることが何よりも大切だと思うから。

 

大学で東京へ出て、僕のアイデンティティの大きな部分を大阪が占めることを自覚したし、同じ大阪出身の友達でもそれほど強くない人がいるのも分かった。ステレオタイプやジェネラライズは時に役に立つが、ほとんどの場合はその人の本質を理解するには至らない。そもそも800万人もの人がいるよ、大阪には。ただ言語が大きなパワーを持つのも事実で、そのことはこれから考えたい。「関西人っぽくないね」「関西だから雑なんでしょ」「関西人だから何するかわかんないね」これらは実際に僕が聞いた言葉。一方で、関西の友達が発する「関東やから」という枕詞にも僕は心から頷けない。数百万単位の人を一つの言葉に押し込むことがどれほど悲しいことか、幸い僕は少し知っている。それは住む環境、つるむ人たち、読む本、聴く音楽、その他すべてのおかげである。

何気ない日常のひとことにさまざまな刷り込みがあって、僕は時々そんな自分をひどく嫌ったりもするけれど、もっと自分を含め多くの人が「生きづらい」を発信して、互いを思いやれるようになれればいい。ほとんどを忘れてしまうほど膨大な数の人と対話をして、知ることから始めたい。

 

p.s. king gnuマキシマムザホルモンが実際に何をどういう文脈で行ったかを正確に把握することは現地にいなかった以上できないので、それらについての言及や批判というよりはあくまでも、そういう批判が起こったことで考えたことを書いた。早く日本の夏フェスに行きたいな!f:id:takaabgata:20220821032853j:image