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九段理江の作品が面白いのは、わたし、がすでに面白いからだ、という物語

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九段理江の文学作品にこれまで見聞きしてきたもの/ことからは一線を画した新鮮な感動を覚える。Wikipediaによると、彼女が世に放った作品はわずかに六つであり、『北國新聞』2023年2月25日に寄稿された「彼と彼女の間に投げる短い小説」以外の五作品を読破した今、顔面を清潔なグーで殴られたような感動のしぶきの一粒一粒を書き起こしておくことにする。

 


2024年3月14日午後7時現在、都営バス上野公園行きの上で読んでいる「しをかくうま」は、一昨日、文藝春秋から発売された九段理江三冊目の単行本。JRAに登録される競走馬の名前の字数が九文字から十文字に変更される、という事象が物語の下敷きになっている。芥川賞を受賞した「東京都同情塔」同様(トウキョウトドウジョウトウドウヨウ←発声推奨!)、現在は存在しない世界やルールを描いている。これらの九段理江の作品の背骨は「今はない/今ある」の微妙な線引きだろう。「今はない」世界を「今ある」とすることができるのは数多いる動物のうち、我々ホモサピだけらしい。この「虚構」という概念が我々を発展させてきたという言説がある。文明の発展、神の死後(フリードリヒニーチェ)、近代的な「個人」によって培われてきた個人個人の精神世界の静謐な波紋が大胆かつ繊細に、わたし、の脳に届く。感じられる。希望の意味が束の間わかったような気になる。「物語」という仕組みそのものが「今はない/今ある」を曖昧にし、わたし、たち、の想像力を掻き立てるものだ。その上で、九段理江の数少ない作品は、この曖昧さを再び、わたし、に強く認識させ、それらが「物語」ひいては「虚構」の楽しみ方の手引書として差し支えないものであること、それほどの感動を、わたし、に与えている。その感動の詳細を以下に書き綴る。

 


その感動は言い換えれば以下のようなことになる。九段理江の作品を読むと、自分の想像や思考の可能性の拡がりを感じられる。アートや創造というのはそうした可能性の実践と壁打ちの結果として表れるのではないか、という仮説を持つ。そうであるならば、わたし、の創造性の指向は、他の人が聴覚や味覚や視覚といった感覚に訴えるところ、言語に向いている、と考えることができる。九段理江作品の根底には、言語に向けられた極めて丁寧で他者には持ち得ない鋭い眼差しがある。言語一つ変われば、今両足で立っている地面が海底になってしまう、そんな言語にまつわる危機感と、暴力性に際して湧き起こる茶色い欲求とが、わたし、をたのしませる。そういう感動。

 


「自分の想像や思考の可能性の拡がりを感じる。」と先に書いたが、これは幻想である。、わたし、たち、はまるで、わたし、がこの世において素晴らしく価値のある人間だという幻想を抱こうとしながら、それを信じられる時には脳内のドーパミンオキシトシンを幸せと呼んで疑おうとせず、そうでない時には何かを憂いたり人に強く当たったり、社会側の構造の脆弱性や不確実性に不満を持つ。マークザッカーバーグアルベルトアインシュタインポールマッカートニーアサクラミクル(彼らが本当に"何かをしたのか"は知らない)を超えるような万人に対する影響力は、恐らく今後の生涯を全ベットしても持ち得ないことは確定している。そういう人生の行き止まり感を忘れられる、というよりはむしろ心地よく感じられるのが九段作品の妙である、と、わたし、は思う。300回転何の音沙汰もなかったジャグラーが、301回目にペカる、その時の生きている実感が、言語が形を変えて、わたし、の報酬系に訴えかけ、わたし、を人間たらしめている、とさえ思う。

 


幻想だ?希望を持つんだ。など、己の生涯の終着点も見ていない人が放ちうる言葉に返すのであれば、「この生活を面白がる」ことが、わたし、がこの神なき退屈な今を引き延ばす理由になるかもしれない、と、わたし、は思う。「この生活を面白がる」、九段理江はその方法の一手をくれる。生活の糸のほつれ、引っ張れば単調な一枚の布に戻ってしまうような生活の糸のほつれの見つけ方のコツを、言葉を通して脳に直接語りかける。だから、わたし、は言語も意味もわからない海外アーティストの楽曲をわざわざ外界のノイズをキャンセルしてまで大音量で聞いて歩くことができる。そこにある種の気持ちよさを認識することができる。やはり生活は言葉の上にある。己は無意味である、誰にとっても無意味である。だから言葉を使って、物語として、己に意味付けをする、己を社会に意味付ける、人間関係で己のポジションを意味付ける、それらのラベルをアイデンティティと暫時的に呼ぶ。意味のない己の生活をなるべく面白がるために、言葉は存在する。言葉では言い表せないことはあるような気がしているが、単に己の言葉を用いた探究の不足である。言い表せないな、で終わらせるのは我々の弱点である。言葉の限りを尽くして言い表す努力をする。その行為を怠らせる一端を担うのは、スマートフォンをはじめとする媒体がもたらす本来のマルチタスキングとは縁遠い単なる注意力散漫で、個人個人がbot化した現代社会を生きる我々人間は、せめて液晶の上に己の言葉を書いてなんぼだと思える、今は。

 


書くことは思考の整理になるのか、タイピングは果たして「書く」ことに当てはまるのか。そんなことを考えるより、タイピングによって生まれた言葉の繋がりは、これまで誰かが書いたようでいて実は個々にオリジナルなのかもしれないと思うことで、希望を見出してみる。人工知能の登場によって、そういう意味のないオリジナルを模索する愉しさを人類は手にしたのかもしれない。「東京都同情塔」は、何か目の前の事象を面白がるには、自分の言葉で考える必要があることを、わたし、に教えた。個々の作品への感想は避けるが(それはこれから物語としていく)、言葉で考えること、それを人に晒すも隠すもよし、Let me think in my own words (ーmy own wordsが思い込みであれ、その都度他者の言葉と言葉を組み合わせたオリジナルを生み出すことー)の繰り返しが、今、わたし、に必要不可欠だと信じたい。