もっとわすれる!

面白かったテレビ・YouTubeについて書きます note▷ https://note.com/131_taka

つぶやきたち

A.I.が入力した二つのワードから画像を作るツールがあって、その精度の低さとか支離滅裂さが面白がられてた」
SNSは精神衛生上良くないから離れようみたいな動きがあった」
ってことが10年後くらいに語られてそう

 

夏の夕方、腹が減りすぎた状態で焼肉屋に並びたい。赤く染まった西の空は次第に、深い深い藍に押し込まれるように地平線に消えていく。それらを純度の増した黒い瞳で見過ごしながら、ダクトから薫る肉を焼く匂いに自分の中の動物性をみるのだ。

 

もう少しここに色々書いていたのだけれど,iPadで編集したのち,Wi-Fi下で保存することなくスマホの方で加筆して保存してしまったために失われてしまった。こういう時、僕はそれらの文章は日の目を浴びるべきでなかったと思ってやり過ごしてしまう。友人に言わせればポジティブなのかもしれないし、不注意を看過すると弱点をつくことも可能だ。痛い痛い痛い!

 

いつも人間関係について考える際には自分で作ったタームを軸にしている。それは時期によって入れ替わり立ち替わり,可逆的ですらある。ある時は内向vs外向。ある時は学歴や偏差値のように測れる頭脳の明晰さだった時もあったが(ある一定を超えるとマジで役に立たないので)今は「本質を見抜こうとする粘り強さ」に言葉が変わったように思う。ただここのところの僕のもっぱらの軸は〈共有〉。イメージ・思考をどれくらい〈共有〉できているかが人間関係の良好さ、或いは深さと直結していると考えている。(良好さとは?深さとは?)

少し理論っぽく言えば,「nを 言って/やって m分かる」と数値化できうるような関係性。(実際に数字は存在しないけど) nとmが近しい数字の時,二者が到達点を迎えるのにはかなりの時間を擁する。なぜならほとんどの場合、(n=)1を発話した時,発話者の脳内では1よりもはるかに多い情報をzipファイルみたいなものに言葉を媒介に圧縮して、後は聞き手の開封スキルや精度に委ねているから。

僕は概して圧縮率が著しく高いと思います。原因は分からないけど,時には100くらいのものを1に圧縮して利き手に委ねているなんてこともあって、だからよく「わからんわからんw」と言われます。大いに僕に原因があるけれど,伝わった時にはひとしお悦びを感じます。そんなだから日常の会話よりも書く方が好きなのかもしれない、圧縮率を自在に変更できて、後は野となれ山となれ、読者に委ねることができるから。この点からいくと僕は対話が下手なんだろうか?僕の胸を打つ文章の中には、僕に直接話しかけてくれていると感じるものがあるが,僕の文はそんな気を誰かに一度でも味合わせることができただろうか?

それに加えて人というのはひとたび関われば互いに影響を与えないということはあり得ないわけで,そしてもしそれが賛同・共感のしやすい思考を持った人であれば徐々に似通った思考プロセスに傾いていくということは大いにある。或いは共感はせずともその人の思考プロセスが手に取るようにわかるようになってくる。そうすれば、n<mの差もどんどん拡大して、nの圧縮前の数値(発話前の発話者の脳内)とmの数値(受け取り手の解釈)がかなり近づいてくることになる。時間をかければより濃密な関係になるというのはこういう仕組みじゃないかな、なんて思ったりする。

圧縮前の数値とnの数値が近い人は、言語化能力が優れているのか,はたまた自分の思考について深く考えを巡らせていない人なのか,今の僕に断定はできない。圧縮前の数値とnとが近しい時,圧縮していないのだから聞き手の開封も必要なく、字面通りの意思がダイレクトに伝わるだろう。

僕がモヤモヤして居ても立っても居られなくなるのは,この「圧縮」や「開封」の作業が乏しい現場である。圧縮率の乏しい、自明なことがらをただありふれた言葉に載せ,受け手も開封して深きを見ようとせず共有の姿勢を示すだけの会話が溢れる現場で僕はいつも自分を見失います。(知らない人が多くいる飲み会やパーティーなどで、初対面なのになぜか仲の良さを強要される場所)

僕は他者と何かを共有できることを他者に期待し過ぎているのかもしれない,わがままで未熟なヒト初心者なのかもしれない。みんなそこんとこ、うまくやっているよな、って半ば羨望の眼差しで見てることが多くある。後,この人とは容易に共有できないなと思った人の前ではなぜか喉につっかえて言葉が出ません。あれはなんなんだろう、異様に注意深く言葉を選ぼうとしてしまいます。僕の言葉が彼らの開封力を前に、発話の前から説き伏せられ慄くのを感じます。そう、開封力の磁場が強過ぎて,こちらがどんな発話をしようとも彼らの中にある凝り固まったものの捉え方のせいで伝わらないということが瞬時に、本能的にわかるのです。

或いは、はなから圧縮の必要のない事柄だけをライトに共有しようという場合には僕は何か言っているようでその実,何も言っていないことばかりを話して乗り切っています。これは先天的に備わった体力の節約法でしょうか、「イェー!飲むぞ!」だけで後は大きな音に身を任せます。それもそれで楽しいから不思議。

それでもなお〈共有〉というものは人間に備わったあまりにも尊い機能の一つだと僕は思うのです。共有は極論、言葉や態度で示さずともお互いの間に走る静電気や、イオンや、気や、そういう不確かなもので確かに感じ取ることができる(笑)ということにして閉じておこう。「言葉にしないと伝わんないよ」厨に狩られてしまう前に。

(btw、厨とか久々に頭に浮かんだわ)

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p.s. 最近のTwitter、不健康なことばかり流れてくるので(主に音楽界隈)一時的に消した。それもあって、つぶやくようなことをここにつぶやきはじめたら、ぼやきになって語りになって、ジジイの講釈みたくなった。