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日記⑩+⑩+②

7月25日

この頃、僕は先祖について思いを巡らせていた。まず、僕たちには必ず生みの父・母がいる。そして父方には父方の、母方には母方の、途方もなく長いヒストリーがある。父と母にもそれぞれ父と母がいて、この時点で既に苗字は4つも存在している。n代遡れば2のn乗数の先祖が存在するのだ。ある二人の人間が出会って子どもを産み育てた、ということが何度も何度も繰り返されてきた。そうした全ての過程の延長に僕が存在して、もし仮に何か一つ、たった一つでもすれ違いが生じていれば僕は今ここに存在しなかったかもしれない。こんな取り留めもないことを延々と考える僕はいなかった。そして僕がいることによって多少なりとも変わる気の流れ、出会う人たちに与える些細な変化、微小な食物の消費なども起こっていない。

想像してみてほしい、自分にとっての先祖を。自分がどんな延長線上に立っているのかを。恐らくほとんどの日本人は、先祖を想像する過程で自然と日本人だけを想定するのではなかろうか。日本の外で生まれた人は"海外の人"だと咄嗟に思ってしまうように、日本以外から来た誰かの延長線上に自分がいるとはなかなか考えづらい。でも遡れば僕たちの先祖には必ず外国人や日本の少数民族が含まれている。僕が誰か一人の先祖を恣意的にピックアップし、その人の「直系だ」と思い込むことで得られる「日本人」としてのエスニック・アイデンティティ、その選択に際して排除される先祖の膨大さを思う。それは時としていかに無意味な行為か。

僕は韓国の友達に典型的な日本人っぽい顔だ、と言われた。(こう言われた時既に、ああ僕は日本人だけが作ってきた家系の人間なんだ、と恣意的に「直系」にあたる血縁者を選択している)そしてその彼女に日本人の友達と僕が映る写真を見せると、「彼は日本人だけど韓国人と言われても頷ける」と言ったりした。僕にもその感覚はわかる。(韓国っぽい、中国っぽい、ロシアっぽい顔。)或いは自意識の時に強すぎる僕は、海外のバスや道で西洋の人やアフリカンに顔を見られた時、「こいつ、顔めちゃくちゃアジアやな〜」と思われてんのかな、「こいつChinese?Korean?Japanese?どこやねん!」と思われてるのかな、とか考えてる。そういう自意識が、僕が日本人であるとはどういうことか、エスニック・アイデンティティとは何か、先祖がいて僕がいることってどういうことだろうか、などという疑問を起こさせる。

先日、日本の母とアフリカのある国出身の父を持つ人に会った。僕にとって日本の親と、アジア以外の国の親のもとに産まれてきた人に実際に出会ったのは初めてで、たくさんのことを考え、次第に僕が考えていることはとてもちっぽけなことのように思えてきた。僕は先祖について考える際、そのヒストリーから知らぬ間に日本人以外を排除していたことにその時ようやく思い当たった。ただ彼女のように、ひとたび父方の先祖が紡いできたアフリカンのヒストリーと、母方の先祖が紡いできたものが交わることで、彼女は二つの、いや、計り知れない歴史の分岐点として存在しうる。そういう時に国籍は何も意味をなさない。一言アフリカンといっても、もうこれ以上言うまでもないだろう。

僕たち日本人はアイデンティティとしての日本人像を強く心に持っている。それは本当に尊く、幸せなことに思う。純血や混血という言葉にも疎い僕たち。だけど僕たちは個人個人が既に尊い存在なんだと、日本人というフィルターを一度取っ払って、父方と母方の紡いできた歴史の現在地としての"僕"を考えた時にそう思った。僕たちは一人一人、奇跡なんだ。こんなに広大で振り返ることのできない大きな大きな歴史の一部になっている僕。そしてそれはたとえこの先続こうが止まろうが、そして忘却の彼方に葬られようが、歴史を作った事実がただそこに残っていく。

日本人なんだ、というアイデンティティが日本人の中に強いが故に、僕たちは没個性的な負のオーラを自然と纏わされている。代替可能な一人の典型的な日本人だ、といつの間にか刷り込まれている。もっと僕らは一人一人素晴らしい。そんなことを多様な人々が街を行き交うこの土地で考えている。