もっとわすれる!

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言葉を奪われる出来事に際して

LAの空港に着いてインターネットに接続したと同時に飛び込んできたニュースに言葉が出てこなかった。現実に日本で起こったことだとは到底信じられなかった。そして当時「心肺停止」と報じていたニュースに、どうか一命だけは取りとめてととにかく祈りを込めた。それしかすることはなかった。センセーショナルな事件とはこれのことだと思った。かつてテストによく出た"凄惨"の言葉を、誰もまだそのニュースを知らないように見える異国の空港の騒がしいバスターミナルで思い浮かべていた。

 

当時Twitterには色々な動画や意見が飛び交っていた。どれもこれもその時の自分には刺激が強過ぎて、しばらくして見られなくなってしまった。(トラウマの残る動画も見てしまった)

 

僕が見たツイートの中には「民主主義」と「暴力」を結びつけるものが少なくない数あった。その中には最後に「選挙に行こう」と付け加えるものまであった。僕はこれに強い違和感を覚えた。ポイントはそこなのか?当時犯人は動機を供述していなかったし、公表された後もそれをそのまま信じるのであれば私的な怨みである。政治や思想的な動機で至ったと結論づけるには当時、あまりに早急で、人の死でなんとか物語作りをしようとしているように感じた。もちろん、元首相が暗殺されたということの重大さはわかる。それは或いは多くの人間にとって理解し難いもので、なんとか理屈の通った物語を作り、あまりに強い衝撃から心を守ろうとしたのかと推量の余地もある。加えて選挙ごとに選挙への関心が増しているのを感じる。SNSも一躍買っていると大いに思う。でも、僕は人の死に際して性急に言葉を尽くさなければ気のすまない人たちのいることに少し、(いや自分でも驚いたことに)かなり絶望してしまっていた。

 

そうしたツイートからとにかく目を逸らしたかった。分かっている、僕は目の前のことに強く心を動かされすぎる。それは時に過剰で、もう少し平穏な心持ちで生きていられたらと何度だって思っている。今だってそうだ。

 

本当にあの夜、色々なことを考えた。世界各地からLAを訪れた様々な人種が滞在していたホステルの6人の共同部屋、2段ベットの下の段に横たわって、どうしてこうも胸の中が真っ白になったのだろうか。撃たれたのが違う人だったら。一般人だったら、ヤクザだったら、外国人だったら、もし米軍基地の中だったら、、。政治家、思想、宗教…。「あんたどこから来たの?」黒人の歌手だと言う彼は言った。日本だよ、と答えると「おお、今とても哀しいことが起きているでしょう。本当に、まさか、日本で…あんなことが…ね。」彼は必死に言葉を紡ごうとしてくれた。そのことに僕の心はいささか動いた。

 

もちろん、僕の心を、そして多くの人の心をぎゅっと締め付けたのは彼が元首相だったからだろう。そのことは深く考えるまでも無くとてもとても大きな意味を持つことだとわかる。彼の出自・家系は日本の歴史に深い意味を持っていて、彼の在任期間が戦後史上過去最長であることも大きすぎる意味を持っていると思う。だけど僕は人の死に際して、死んでいく人に対して、まずすべきことはそのコンテクストに焦点を当てることではなく、暫時弔いの精神を持つことではないか、と思った。それは誰であれ。(そしてそこで人を殺めた人がその罪のために殺められる時、ということに思い当たります)

 

僕は初めて人の死について深く考えました。これまで幸運なことに身近な人を亡くしたことはなく、誰かの死のニュースに際して深く何かを考えてこなかったからです。僕は初めて自然に心から、こんなことで死んではいけない、人が一人、こんなことで死んではいけない、と思った。誰であれ、と断言しようとしているのも、もしかすると性急で、何かしら深く無自覚的な刷り込みによるものなのかもしれません。ただ、殺していい命はひとつもないんだと思いました。そのことはなによりも僕の心があの夜、本当に乾いて乾いてからっぽになったことが示している、僕が知っている。

 

ただ、もう一つ考えなければならないのは無差別に人が殺されるときのことだと思う。今回はそこに私的な怨みという動機があったから、特別な背景を持つ人が対象となったから、僕はあれこれ考えようとすることができる。感情の面に訴えようと試みることができる。ただ、ほんの思いつき程度に人を殺める無差別の殺人が起こった時、僕に何ができる?(社会に何かしら恨みがある場合も除きます)その対象は僕になるかもしれないんだ。あまりに非情だ、という声の届かない相手に、どんな想いを遣れる?心の通わなくなった'人'にどんな言葉が、どんな考えが通じるんだ。やっぱり僕は頭もよくないし要領も悪い、いちいち立ち止まりすぎている。

人には人の心が通じると過信してはいないか?山奥で動物によって命が奪われた場合と、比較して考えると何が見えるだろうか?

 

どうしてこんなことが起こったか?どうすれば起こらなかったか?どうすれば二度と同じようなことが起こらないか?そのどの疑問符にも「ある種の自然の摂理かもしれない」なんて答えがどうして"逃げ"でありうる?そういうシェルター無くして社会をサバイブできない人がいても何もおかしくないと思った。全員が一生懸命自分の人生を生きることは他人の人生に関連して、社会に還元されていることがようやくわかってきた、常に命をかけて一生懸命瞬間を生き延びることが何よりも大切なんだと、ようやくわかってきた、頭が理解してきた。ただ、理解できないインベイダーはこの先も絶えず現れるのだろう。僕やあなたが100%ならないということですら誰にも言い切れない。ただ起きてはいけないことが起きて、少なくない人がそれに心を痛めた。人の死にはどうしても、コンテクストを排除することはできない。ただ、なんとかそれを排除して、ただその人の死に際して(余裕があるならば)弔いの気持ちをわずかでも心に持つことは僕は大切だと思った。

 

 

P.S.ものすごく難しいこと。でもあの時、「誰が死んだか」が中心になってしまうのにはすごく違和感を感じた。人ひとりの命に重さの違いはない、と思っているし信じています。信じていきたいと思いました。それは何よりあの時感じた強い違和感が証拠だと思います。ただとはいえ、こういうことを考えたきっかけとして「誰が死んだか」があるのも事実です。でもそれは僕と「死んでしまった誰か」の結びつきの強さによるものだと思います。これは僕が死について考えた人生で初めての機会です。恐れずに言えば綺麗事に聞こえるかもしれないし、そんなことはわかっている、わざわざ書かなくていい、ことかもしれない。というか、間違いなくそうです。ただ、僕はあまりに未熟で愚かなのでこういうことを書かずにはいられませんでした。どうか、僕がこれからも僕の気持ちを持てますように。扇情的な出来事に立ち止まって考えることができますように。この期に及んで自分のことばかりを考えている自分ならばそれはおそらく可能ではないでしょうか?無力で自分のことしか考えられない割に、いつまでも大した考えの浮かんでこない僕に、誰か、なにかを教えてください。

 

癒しになったのは心休まる音楽だった。haruyのlovely、そっと寄り添ってくれました、ありがとう。