もっとわすれる!

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話し方にタッチのようなものがあるとするならば

友達が、僕の知らない"誰か"について話をしてくれる時、登場人物の語り方には統一感があるように感じる。友達によってその特徴は様々である。漫画家の絵が目のタッチで見分けられるような、あれに似た統一感を感じる。

 

例えばある友達が僕の知らない誰かについて話す時、それが誰のどんなエピソードであっても、登場する"誰か"は少し理知的で、突拍子も無いアイデアをぽんっとその友達に投げていることが多い。そして友達はそれに感心したり、苛立ったり、いつも何かしら強く心を動かされている。

 

例えば別のある友達の話に登場する"誰か"は、いわゆるお坊ちゃんやお嬢様のような、世間一般からは少し隔たったような突飛な考え方をする人が多い。そして友達の話振りからは、とにかく"なんかすごい"人だという印象を受ける。

 

この"なんかすごい"という部分にあたるものが、"とにかくせっかち"な"誰か"であるときもあれば、"筋立てて考えることの苦手"な"誰か"さんたちが多く登場する友達もいる。僕に与えるイメージの具体性・抽象性も語り手による。友達の環境の変化や、経験からその人の感覚が変わることで、登場人物の一貫性に微妙な変化が訪れることもある。だけど、その友達の声や話し方を通して語られるエピソードを聞いて動く僕の感情のパーツは時を経ても変わらない。

 

人の語りにはその人特有のタッチみたいなものがある。と僕は思う。(村上春樹作品の主人公の男の子に静かな共通項があるように)

 

話し手ごとの登場人物の統一感、一貫性はどこからくるのだろう?単に、人間が他人に伝えようと思うほどの強い衝撃を受けるポイントにはそれなりの一貫性があって、それを咀嚼し、エピソードに仕立てるのはいつも同じ俎上で行われるのだろうか?だとすれば、自分にはない他人の捉え方や発見をしている友達が、自分にとって刺激のある友達ということになるのだろうか?あるいは自分が居合わせうる環境で起きた事件について、それを似た感覚で捉え解決していく友人に親近感や、事件を擬似体験をしたように感じるのだろうか?

 

友達が僕に向かって話をしている時にそういう一貫性や統一感を発見をして(自分で勝手に点と点をつなぎ合わせて)、その友達に対して感じる言葉にならない(僕だけが感じているであろう)懐かしさであるとか、その友達特有の視点、或いは世界の捉え方を改めて把握し直したりする。僕にとってその友達の、僕の中だけの立ち位置みたいなものを、明確な座標を設けずとも認識し直し、その友達が僕にとっての友達である理由みたいなものに出会うことができる。(そんな気にさえなる。)

 

おとぎ話を聞いたときのような、そんなことが起こるの?という心のざわめきが、友達の話す"誰か"の話にはいっぱい詰まっている。そこには友達それぞれに特有のタッチがある。話を聞いて僕の心にぼわーっと湧く気持ちの色、温度、心地よさ、笑いのツボの押さえ方はその時々で話す友達によって全然違う。だけど、その人の話でわきおこるそれたちはいつも同じなのよね。その不思議さやよろこびといったら。久しぶりに話してくれた友達の話を聞きながら「このかんじ!」というなつかしさ、いや、なつかしさという言葉では到底収まりきらない、そういう一式のなんとも言えなさ、を閉じ込めて。そういう帰り道が幾つもあります。

 

本当にこれは言葉にするのが難しいことだわ、どう思いますか?