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日記⑩+⑩+⑦ 対話をする

8月10日

「生きづらい」という言葉はしばしば社会でうまくいかないと感じることへのエクスキューズと見なされ、ネガティブなイメージを負わされる。運良く「生きづらい」と感じたことない人や、既に克服してそう言う人々を劣性と見なしている人によって。ならば、「自分を取り巻く環境に違和感を憶えやすい人」と言い換えよう、語呂は悪くとも。僕は対話を求めている。「生きづらい」と感じたことのある人が、どこをどう生きづらいと感じ、それをどう捉えどう乗り越えようとしたのか、その過程が知りたい。だから声をあげて欲しい。「生きづらい」と。そのために違和感を無視してはならない、一つ一つつまみあげ、そのどこに原因があり、何がその体制を作っているのか考え続けなければならない。そういう文脈で社会学は機能し続ける。f:id:takaabgata:20220811030051j:image

僕が「生きづらい」という言葉を意識したのはオードリーの若林正恭か、オアシズ光浦靖子の著書を通してだったと記憶する。若ちゃんの著書には「チクチクして着たくもないチョッキをなぜみんなが黙って着ていられるのか分からない」というようなエッセイがあった。(うろ覚え🙏) なぜチョッキを着なければならないのか→ なぜ制服が存在するのか→なぜみんな同じ服を着るのか→服とは何を表すのか→着飾るとは、必要性は→ファストファッションとは→ファッションデザイナーは芸術家か生産者か→ウィリアムモリスが打ち出したアーツアンドクラフツ運動とは……この矢印が多ければ多いほどに、違和感は氷解して、また別の違和感が立ち現れる。こういうことを止めてはならない。他者に寄り添おう、多様性の尊重!、そういう口先のあれこれ。"多様性"という名のルールブックを読んでいるようでは真の多様性は始まらない。一に対話!無秩序にノールールのもとで行われる無数の対話がなければならない。そこに型はない。だから声を上げるというのが大事なことなんだな、と!