もっとわすれる!

面白かったテレビ・YouTubeについて書きます note▷ https://note.com/131_taka

色んなさみしいの中の一つ

人が自分らしく生きられる(≒無敵)のは「自分が悪いと思っていない時・自分が悪くないと思い込んでいる時」なんじゃ無いかと思う。

何か社会的な問題が起きた時にTwitter上で正論をつらつら書く人たちを見ていつも不思議に思っていた。だって、その人たちは文字通り「無敵」なわけで。今回それを強く思ったのがDJ SODAに対するセクハラ問題。セクハラをやった人が悪いのはもちろん、全員が分かる話だ。「逮捕しなければならない」と殊更際立てて言うほどでも無いほど当たり前の話だ。それを万感の思いを込めて(或いはこれまでの音楽業界にも要因があるなどとして)書き連ねる人たちを見て、もっと不思議な気持ちになったのだ。

話は10年前に遡る。

小学校の先生が、算数の授業中に「この問題分かった人?」と聞いて挙手を促す、よくある光景。外交性マックスだった当時の僕は、中学受験のため塾に通っており、小学校の問題は簡単でいつも真っ先に手を挙げていた。そうするとよいと思っていた。でもいつしか先生は僕を当てなくなった。真っ先に手を挙げた僕を見ながら、見なかったような顔をして他の生徒の挙手を待っていた。ああいうところから僕は「自分の正しい」を疑い始めたんだと思う。分かっていても手を挙げないこと、そうしないと或いは自分を過剰に誇示することにもなるのかもしれないと、思うようになってしまった。本当にこんなちっぽけなことで。授業中に挙手すること(=正しいこと)が崩れた時、僕は「先生の進めたい授業のテンポに沿って授業を理解し、その適切なタイミングで(邪な気持ちなく)手を挙げる生徒」を羨むようになった。そうして、そうはなれないのだと思った。素直さを捨て、道化の道を知ることになった。

社会性を身につけるとはこういうことなのかもしれない。誰かの顔に書かれた透明の文字を、その人の顔を見ずとも読解する能力を付けるということ。こんな誰かが一昨日も考えたようなことを悟って尚、「自分の正しい」を発することのできる場所は「日々のおふざけ」の中にしか無かった。それは今となっては俳句や小説といった創作として僕を支えている。誰かが落として行った片方だけの靴下や、手書きの「ペンキ塗り立て」の紙だったりする。ただこれは二人いる僕(社会に対しての僕と、普遍的な僕)のうちの後者に過ぎない。人間、部屋を一歩出ると社会的動物。誰かと話し、誰かからお金を貰わなければならない。ここに社会性の重い鎧をまとった僕はいつも自分を見失う。いささか大袈裟に書き過ぎたかもしれない。言いたいことは、本当の自分だと思っている自分は普遍的な自分ですか、ということ。いつの間にか、社会が作った鎧がアンダーアーマーくらい着心地ようなってませんか、言うことです。

さて、話を戻す。

小学校の例で言うならば、邪な気持ちなく手を挙げたタイミングで先生に運良く「○○さん」と回答権をもらった人は、その先も適度にずーっと幸運だと思う。誰かの決断、行為、思いにはその裏があるということをそれほど考えずに済んだからである。自分の立場を鑑みずに、臆せず普遍的な自分で勝負できると思えるからである。自分がNOだと思った時にNOだと言うポテンシャルを持っている、これはまぎれもなく素晴らしいことだと思う。ただ、「正しいことを正しい」・「間違ったことを間違っている」と言い続けることに疑問を持たないままその先を考えないのだとしたら、その人は本当に"しあわせ"な人だと思う。

人と人が交わる時、意図せずにその人を傷つけていることがある。ベストを尽くし、親切を思ってやっても、だ。その時に自分がしたことだけでは無くて、相手の立場に立てるかは本当に、大事だと思うんだけどなあ。「自分が悪くないと思い込んでいる時」って人は良くも悪くも無敵ですよ。社会は全員が自信を持って「僕は正しい!」と思いながら回っていくべきなんだろうが、どうもそんなこと無理なんじゃないかなぁと思っている。社会的に正しい、も大事だけれど、自分の中に元々なにがあるか見つけるのって大変で、もっと大事だと思うんだけど。そして隣の人の中にあるものを見つけて褒めてあげることも。

なんだか、ここら辺を分かっていない人が多い気がして僕はさみしい。