もっとわすれる!

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日記⑩+⑩+⑩+⑩+⑤ 塩塚モエカやばっっっっ

12月21日

シアトル着。雪で反射する日光に目をやられつつゴールイン。

戻りたい時間がある。無いよりはマシだよねえ

 

12月22日

戻りたくない日。

 

12月24日

朝、美容室へ。陽気な韓国姉さんたちとトークアロット。気分るんるんで帰宅。

 

12月26日

もうずっと同じ道を行って帰ってきてを繰り返している気がする。生まれ持った繊細さとのうまい付き合い方がわからない。どしーんと凹む時期。かと思えばその繊細さゆえに多くの物事が美しく感じられ、人の機微にも敏感に気付けるんだと無敵モードに入る時期。それからしばらく経つとそんな幻想など存在せず、目に見えるものをそつなくこなせる人こそ社会において必要とされているんだと自分の無価値さに面でぶつかる時がある。

この人だけには僕の心の微細な動きを理解してほしいと望むときがあり、それが叶わないと知るとひどく辛い気持ちに包まれる。そうしてまた誰も僕の気持ちなどわからないんだ、と卑屈モードに入る。ここには幸か不幸か悪者は誰もいない。「誰もあんたのこと気にしてないよ」、優しさから出たそんな言葉を聞いたって何の役にも立たない。だってこの僕が、その物音一つ、声の大きさの変化、声色の変化、顔色の変化、それらに気付いてしまっているんだから。「それはあなたの中で決めたことであって、私の本当の心情とは違う。そこまで求めてない。考えすぎ。」それを言われちゃあおしまいです。だってそうなんやもん。僕が勝手にやって、勝手に凹んでることなんやから、知ったこっちゃないよな。でも実際にここにはあるんやけどな。そういう渦巻きが。

誰かと近づこうとするたびに、同じ気持ちを抱こうとするたびに発生してしまうんだ。

僕がただ感じたことがそのまま受け入れられない挫折を後何度味わえばいい?どうして僕は僕の気持ちをその人に向けて打ち明けた後のリアクションを過剰なほどに期待してしまうのだろうか?どうしてみんなはありきたりな表現で「人と繋がれた」と感じられるのだろうか?この人には全て打ち明けられる、全て手に取るように分かり合える、そういう心情の美しさを知りすぎたからこそ僕はそういうつながりを期待してしまうんだと思う。「人に期待しない」ことは残念なことでもある。僕にとってそうカテゴライズした人たちは僕の気持ちを表現する必要のない人を意味するからだ。(つべこべ言わずみんなはやりたいことや嫌いなことを自分の言葉で表現できる。それが良しとされている社会の中で)

みんな本当に上手く生きてるよなーと思う。物音や顔色の変化、そういうものに気を払わずによく好き勝手ものが言えるよなーって卑屈になる。相槌の声色ひとつで、僕の話すエピソードにはもうひびが入る。話さなくていいや、とさえ思う。なんかどうしようもないんだと思う。僕はこの道を行って帰ってきた、これで22年。時々わけもなくスキップしたくなる日がある。時々わけもなく誰かに心底腹が立つことがある。(なんか書いてるだけで腹が立つ)。このまま85歳まで生き抜けるぞー!って日と、3ヶ月後さえ見通せない日がある。聴きたい音楽が山ほどある日と、何を聴いても気分が上がらない日がある。友達(親しさに関わらず)全員を誘ってパーティしたいような日と、本当に親しい友人と静かに話を聞き合いたい日がある。凛と咲く健気な花々に挨拶をしたい日と、止みそうもない雨に叫び出しそうになる日がある。そんなことを繰り返して、気付けばまた今日になっている。起きて気分がいい日は良いよな、それで全部いいんだから。

どうか、この人には、この人にだけはこの気持ちを共感してほしい、僕のそばにいてほしい、そう願うたびに僕の想いは加速を続け、そうしていつか、でも必ず潰える。やっぱり一人でいる他ないんだろうか。刺激を求めて外へ出ては刺激の強さに面食らい、落ち着ける場所へ帰ってくる。愛する音楽、愛する文章、愛する映画やミュージックビデオ、ラジオ、そうしたかつて愛したものへの偏愛は深まっていく。新たな愛を育むことが億劫になっている。

いつからだろう?誰かに心を開くことに体力が要ることに気付いたのは。誰にでも心を開ける人を見ると妬ましさと同時に汚れた卑屈な心がふつふつ湧き上がるようになったのは。

いつからだろう?誰とでも上手くやれるわけではないと気付いたのは。誰とでも上手くやれる人を見て、邪な気持ちを抱くようになったのは。そういう人になりたいと素直に憧れる気持ちと、なってたまるかと思う気持ちが存在し始めたのは。自分を簡単に否定してしまうにはあまりに歳を食い過ぎた。自分の好きなところも嫌いなところもたくさん知りすぎた。容易く変えられないことも知ってしまった。海外に逃げようが、好きな本の中、音楽、書くこと、大切な人たちの元へ駆け込もうが、結果は同じことだ。

「男なら小さいことは気にするな」「そんなこと気にして、女か?」の価値観が土台にある。僕はどうしても「器が小さい」男であることを認めたくないみたいだ。だから悩む、考える、考えているふりをする。何をもって器が小さいのか、僕の器を小さくたらしめているものは何か?小さいことにあれこれめくじらを立てて勝手に傷ついて、傷付けた人の意図を探ろうとする。答えはどこまでも「僕が気にしていたことを他人がそこまで気にしていなかった」というただ一つにしか行きつかないのに。ここでまたもう一人の自分は「なんでも他人より気付いたような気になってんじゃないよ」と囁く。己の緩慢さを棚に上げて、人の言動行動にめくじらを立てるのはやめなよ、と言われている気がする。はいはい、もうどこにも行けやしないんだ。素晴らしくきらきらして見えた世界も、真っ暗闇にぽつんと一人でいるような気になる世界も、いつも同じだ。天気のように少しずつ変わって、車のガソリンのように時々継ぎ足しが必要になる。安定など幻想で、不安定もまた幻想だ。

僕は欠陥品なのかもしれないと思う。社会の中でみんなが上手くかっちりと自分の場所で地に足をつけて働き続ける中、僕は順調にいったかのように見えた矢先、すぐに不具合を起こす。そういうことを薄々勘付いていたのかもしれない。「変わっているね」という言葉が唯一僕と学校とを結びつけていた。何か「変わっている」状態であらねば、こういうことは薄々思っていたことである。

言い訳を探しているわけではない。こうして文字にして書き起こすことが僕にとって誠実に生きる、ということみたいだ。みんながそれなりに過ぎ去っていけるポイントで立ち止まり、みんなが立ち止まるべきだと思っている場所をいとも簡単に見落とし、見落としたことにひどく落ち込む。僕は何かが見え過ぎて、何もかもが見えなさ過ぎている。何やらまたすぐここへ帰ってくるらしい。

 

昨日の自分と明後日の自分へ向けて。

 

p.s.こんな風にして僕はいつだって最後を丸く収めようとする。自分の本当の気持ちなんか分からないし、それならせめて読む人の気分が乱れないように無意識に'施し'を行なってしまう。希望を、残そうとする。他人に文句を言いながら、「自分でなんとかしなあかんよ」と語りかける自分がいるから、いつも口をつぐむ他ない。書きながら二行先の訂正のことを考えている。気持ちが自分側に偏り過ぎないように。

 

久しぶりに岡崎京子でも読むか、ウディ・アレンの映画でも見るか、オアシスでも聴くか、村上春樹でも読むかー!そうする!うん、そうする!

 

羊文学の新曲の歌詞が、全てを語っていたから、それで少し報われた。と言い切れるわけでは無くて、気付いてもらえたというか、僕が無数の感情を抱いたこと、そういう無限の感情が存在すること自体は肯定されたように感じた。

昨日言った僕の言葉がなんだか今日の僕を惨めにする

昨日言った僕の言葉がなんだか今日の君を傷つける

今日も君を戸惑わせる

昨日の僕と今日の僕じゃおんなじじゃないけど君にはわからない

当然の幸せは幻だったって

 

塩塚モエカやばっっっっ

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