もっとわすれる!

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クレンジング

近況。今年最初の一ヶ月が今日で終わるにあたって、2022年、これはなかなかいい年になるのではないかしらんという滑り出し。1月の中頃までは自意識は例年通り濁濁しい茶色をしていたが、ある一冊の小説がこの人生まるっと20年間を受け止めてくれた。想像力。慮り。敗北を味わったことのある人の懐の広さ。貧乏比べじゃなく。

 

先に述べた小説を読みながらふと、前々から2日くらい離れては戻ってを繰り返していたSNSをいっぺん消してみようと思うに至った。一月の中旬から下旬にかけてのことだと思う。「出た出た」「はいはいやりがちやりがち」、社会を全面的に肯定するのではなく、常にその「当たり前」から二、三歩外に出て“俺は社会見えているよ“、とする感じね、と思われるのまでがセットだと思われたから、敢えて親しい人にも言ってない。寧ろ親しい人に会いに行く道中でSNSをインストールして直近のストーリーをインプット、会話のネタにするなどして普段通りのSNSとの距離を示そうと、努めて何気なく振る舞った。(何でも付き合い方が極端で絶望的なんです、ライトな付き合いができひんもんで。)

 

Z世代とか、ソーシャルネイティブとか、大仰なことは考えられなかった。動機は、いつしか常に“並ぶためにパンケーキ食べて“状態に陥っていて、自分が誰でもないように虚しく思えていたからだ。(本全然読んでない、やば、とも思った。)こういった類の、自分が“何者であるか“とか、“自分さがし“を軽薄なものとして扱う世の風潮もわかる。けど、こんなにも混沌としていて“自分らしく生きよう“とわざわざ言わなければ“自分らしさ“が担保されない世の中で、要は自分が一体何者なのか誰も説明できなくなりつつある世の中での“自分さがし“は果たして本当に取るに足りないものなのか? “自分さがし“の必要がないような、自分がこの社会に生まれ落ちて死んでいくのが当然だと思い、それを一度も疑わずに生きていくことが果たして幸せか? これまでは何者かを社会側が大雑把に規定していたから考えずに済んだんじゃないのか?(男やったら女に惚れるでな〜!二つ返事の「もち!」)

 

というようなことを堂々と言えるような人を思わずフッと斜めから笑ってしまっていた以前の僕も、やっぱり自分がわからなかったんだとと思う。今も分からないけど、分からないことには少しだけ自覚的になれた。

 

自分の行きたい!と思ったお店が既にインスタでバズっている。とか、「その曲Tiktokの曲だよね〜。」とか。

行ってもいい場所/聞いてもいいはずの曲から遠ざかるほどに“マスに括られたくない“という自分の虚しさを突きつけられてしんどかった。だから、行きたい!と思った場所に行ってみる。誰の感想も聞かずに、楽しかった/楽しくなかったを判断する。良いと思う曲を聞く。こういうあたりまえができるようになってから心がものすごく健やかです。だってバズってるかどうか知らんねんもん。それが結果マスでも、自分で選んだマスなら大迎合!

 

腫れもの性と「いつか足下掬われる」の原則が僕の根幹にある。だけどこうした自身の原理原則みたいなものはiOSみたく二、三ヶ月ごとにアップデートされていく、日々の発見で自分に裏切られることによって。

僕が競争や市場や経済やビジネス(似たような言葉の羅列だけど)に疎かったのは、そこに参加できるかどうか確信を持てないからだと最近思った。僕は競争に悔しがれる人を羨ましく思う。僕は競争に負けた時の言い訳として「エテフエテ」という言葉があることを存外早めに知った。不得手の場所では勝負しない、それは僕の逃げであり根本であった。得手で勝負していくという習性。そういう習性は社会で生き残っていくためには合理的なのか?そもそも自分の得手をきちんと把握できているのか?と脳内問答が始まる。敗北を悟るのが早いから別の方法論で、先回りして姑息に勝とうとするのが僕のやり方なのか?んじゃあなんで大学受験みたく全員同じ土俵の時は熱中できるのや?何で就活には気が向かんのや?疑問は止まへん。

 

中学受験のため大手の塾に体験で行った時、先生はやたら扇情的に“隣の子“を意識させた。躍起になる“隣の子“を横目に僕は「この子とは受験校も違うし、そもそもこの漢字テストに一点差で、それもトメ・ハネ・ハライのケアレスミスで負けたことの、何が悔しくて涙を流すのだろう」と不思議で仕方なかった。「てか待てや、僕今日体験やで?」いやなガキだ。この“競争の前に一歩立ち止まる“の積み重ねが腫れもの性を加速させた。或いは競争に勝って誉められるよりも、他人と違うことで誉められた経験の方が多いのかもしれない。そっちの方が誉められない原因を他人に押し付けることができる。負けではなく、解らなかったのだという言い訳。自分の無力さを思い知ることなく生きていける。という狡猾さ、小賢しさ、矮小さ。から感じることのできた無力さ。僕はどこまでもちっぽけである。

 

答え合わせをして自分のミスに気付き、次は正解できるな!にもっていくことが受験勉強だ、という今になると偉そうに文字に起こせるけれど、漠然と感じていたそれは大学受験になってもさほど変わらなかった。模試の結果にも一憂できなかった。それはまずは言い訳であった。低い点数から自分を守る防御であったが、高い点数にもここで喜んでいたら足下掬われるな、という戒めもあったように思う。(でも他人の点数に悔しい、と思ったことはほんまに無いかも。)悔しいは奥深くにある感情でそれを出したりするのは理性に欠けることやと思ってたかもしらん。悔しいというランプが点灯する前に体が勝手にどう戦うかを考え、そっちに意欲が湧いていたように思う。すぐに分析した。それが先天的な敗北か、後天的な敗北か、偶然か、必然か。あの人ああ見せてめちゃくちゃ勉強したはんねんな。地頭物凄いええねんな。終礼終わったらそそくさ自習室行って集中したはるもんな。(ここまで見てるやつ、ほんまはめちゃくちゃ悔しいんやんけ!)そうした分析で、僕でも同じように頑張れば戦えるな、この人には頑張っても勝てないな、でもあれやったら勝てるな、になる。というかそもそも誰かに数字で勝ちたい、という気持ちが極めて希薄。人それぞれ目標は違う、知能はIQとして数字で測れるもので、それも違う。なので僕は悔しい!と曝け出せる人がかっこいいけどめちゃくちゃ怖い。卓球少女がミスをして泣き、怒るビデオ、あの発露法が僕には搭載されていない。小賢しく、ちょこざい生き方をしてる気がする。

 

張り合って競争に勝たなければ!社会の荒波では時に他人を努力で打ち負かさねば!ということへの違和感、これは間違いなくずっとある。画一すぎるやろ、って。羊水で言い訳だけ吸収したんかいうくらいの「言い訳」。あ、原理原則のアップデートきた。こないしてブログ書いてるのも多分に折り合いがつかんことに対する言い訳である。言い訳の方法を増やすことに苦心している。逃げ。うわ、僕これやん、、。

 

 

この一連の思考が僕の気分の上下の多い原因である。近況やあらへん。いつもおんなじ、暇さえあれば「言い訳」ばっかり探してるわ。その言い訳と辻褄を合わせるために何かに取り組む。つまり言い訳は次のモチベーションになってる。こう言い換えると気分やや上昇↑はい、これこそ言い訳〜↓で気分フラット→に戻った。以上!