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親愛なる2021年へ

親愛なる2021年へ、友達と渋谷で餃子つつきながら、またある時は美容院の椅子に座ってされるがままにされながら、ほんでまた深夜は大阪へと走るバスに揺られながら、あんたのことを振り返ってました。親愛なるって言うたけど、もうあんたと過ごしたい一日なんてのはこれっぽっちもありません。楽しかったことも腹立ったことも山ほどありましたわ。やはり若さというのは集合として美しいのであって、ひとつひとつはそれなりにかすみ、傷ついているのだ、と僕は思うのです。

 

太陽が昇って沈んで、これを1日とする、これは人間が決めたこと。地球が太陽の周りを一周するのを1年としているらしい。それを12回に割ってみるとか、それをさらに7で割ったろやないかい、とか。全部人間が決めさせてもらいました。太陽暦、言うらしいで。中学の時、地球がちょっと傾いてるって聞いた。それがなかったら季節も無かったとか。僕は思った。傾いてるから季節があるわけで、"傾いてなかったら"なんて話は言いっこなしよ。僕は今年も大抵の物事にこのスタンスでおった。

 

今年は例年に増して自分と喋った。好きなこと、嫌いなこと、考え方、感じ方、いいとこ、あかんとこ。そういう会話を四六時中自分とした。そんなんしてたあかん、とか言われた、ような気いする。毎日。外はうるさい。内もうるさい。どっか行きたい。自分との会話のスタートは大抵、他人とのかかわった後。他人との関係性の中でしか自分は成り立てへんから、一人っきりで生きている時なんかにはそういう会話は止まってる。

 

今年はとにかくたくさんの人に会えたし、刺激をくれる人に、ほんでからガスコンロが点火する時みたいにばちち、と合う人にも何人か出会えた。「会いたい人には会いたいと言う、好きな人には好きと言う。」大切な人を亡くした大人が口を揃えてそういうことを言うから、幸い僕はまだ誰も失ったことはないけど、絶対後悔したくないから、真似してる。来年もしたい。人と人。

 

今年、人間にとって一番大事なのは、「自分の心身の健やかさ」だということにも気付かされた。そっちから考えて、あ!法律とか社会のルールってそういうことやんってはじめて飲み込めた。基本的には他人の「心身の健やかさ」を奪うことがダメとされてるんや、って。そこにお金が絡んでいるけれど、お金は心身の健やかさに不可欠やから。(2021年、最初に立てた目標の中に「資本主義、経済について詳しくなる」って書いてた。詳しくはなれへんかったけど、考えた時間はうんと長い。はず)

 

それと、自分の思っていること・感じていることが本当やということ。例えば人に迷惑をかけたとして、外から見た"迷惑をかけたこと"それ自体ではなく、かけた後に自然と起こる"迷惑かけてしまったなぁ"と戒めたり、落ち込んだりする気持ち。こっちを大事にしたいと思った。(恥はもち大事やけど、罪の意識もまた大事や)他人に投げる言葉は他人に向けてるから。自分に投げかける言葉は自分にだけ向かわせたい、嘘つきたくない。また自分やん。

 

僕が幸せそうにしているのはなんか腹立つと言われた。言われた?言わせた?ごっつ傷ついた。幸せって感じている時間を疑った。言わせた。ノリ?分からん。傷つくやつはめんどくさいとの世間のふんいきがある。めんどくさいと思われたくないから、軽薄な感じを装う。普通の人でおりたいから、あのひとらみたいに。自分とのきょくたんなる乖離。アルティメットなまでの乖離。軽薄さを装っても、ダメである。結局はその自分の、そいつ自身がギャップに打ちのめされるのである。適度の位置が見当たらん、別に普通やねんけどな。

 

昨年2020は、一年通して何かを感じるってのが希薄やった気がする。自分が老けたのかと結構落ち込んだ。今年は、エネルギーがあった。割とあった。そのエネルギーは基本的には内に内に。自己中心的すぎるし、こころがへなちょこ。矢印はうちに向いとるわ。向きまくっとる。人を思いやるとか、ちょ待てやって感じ。でも、それが経験値って気付ける日が来るのを信じとる。

 

人を傷付けるの恐いんは、自分が傷つくのが恐いから。さーからその場凌ぎの言葉しか言うてへんし。人間は生まれてから毎日、自分が傷付かんように防具を身につけていくらしい。傷に無頓着な人はごっつ羨ましい。大人が恐い。ええ顔してなに言うてるかわからんし。今年、「誰も信用してないでしょ」って言われた。そうかもしらん。分からん。別に自分が特別やと思ってるやろとか思われたない、ひけらかすとかそう言うのが一番忌み嫌うこと。

 

傷ついたことの貧乏比べはしたくない。でも、僕は傷付いた人たちに同情したい。同情されるの、みんな嫌いっぽい。なんでや、分からん、分からんことが多すぎて、自分を隠す。隠すっていうか、出してたらはみ出る。ってか、それ込みで全部自分。積極性とか、主体性とか無いってみなされる。また"みなされる"っていう、言い訳をしている。

 

at店員さんと毎回おしゃべりをするカフェ、最近結婚をしたらしくて、その話なんかも教えてくれる。最高やねんて。奥さんはヤクルトファンで、日本シリーズのとき、家の中で普通の雨傘ひらげてたとか。フィンランドへ留学をしていた。仕事はこんなの。カフェの店員になった経緯。とにかく、とにかくである。

 

人と打ち解けにくいのは、隠しているから。隠すほかないから。中身の空っぽさを打ち出す、差し出す。すっと鼻で笑われる。ほらまたやん。とか、おもう。おもいたないけど、おもってる自分がおるから、自分が一番悲しい。分かってくれへんやろ、というスタンス。よろしくない。フェアでない。卑屈とか、そんなん誰も思ってないわ、とか。思ってる人と思われるのも嫌やけど、現に思っているのであって。思っていない方々からの思っている言葉は有難いのであるけれども。されればされるほど手を煩わしてしまいそうで、誰にも何にも言えなくなる始末であって。大人になるのは隠すこと、大人になると友達ができなくなるのは隠すから。ほしいのは鈍感力。年老いてほしい。でも若々しくぴんっと尖った感覚を感じていたい。

 

何もかものことに、うまく関わるってのがヘタクソ。インスタもTwitterも、人も、社会も。大袈裟やな。まあそう思てるんやったら書いとき。のめり込む、影響を受けすぎる。感情が人の7倍くらいはある。全てを無視できない。すぐに溢れそうになってイライラする。余裕がないね、大人になりなさいよ、と言うてくる。待ってくれ、今ここにいる。僕は今ここにいる。今ここで抱く感情で手一杯なのです。余裕はない、余裕がないと表明したい。僕が言うとガチ感が出る、うん、ガチ。本気のマジのガチで心の意見を聞くのに時間がかかっておる。本心本音がわからんからとりあえずおどけたり、ひょうきんを装う。はい、すみません。いやちゃうんすよ。「すよ」なんか使ったことないのに、軽薄な感じを出したくて使ってみている。「そうなんですよ」と言いたい。「そうなんですよ」というやつは扱いづらい?だから「そうなんすよ」あるいは、「そーなんっすよ」と言うてみている。真似してる。会話は内容よりも「即答」と言われたから、「どう?」と聞かれたら「いいと思います!」とハキハキ言う。鼻で笑われる。みなさん賢いので嘘は見抜かれる。じゃあほんまのこと言わせて。「まだどう思うか決めきれていません。言葉になっておりません。心に尋ねている途中であります。また折り返しお返事致します。失礼致します。」

 

今年一年生き抜いたこと、これはとてもラッキーである。

2022も自分を生きなあかん、これはラッキーである、と。

 

書いてさえすれば、なにもかも忘れることができます。悲しみは消え、新たな勇気が湧いてきます。

書くことによって、新たにすべてを把握しなおすことができるからです。わたしの想念、わたしの理想、わたしの夢、ことごとくを。

(「アンネの日記アンネ・フランク)

 

 

p.s.人間は内向的にならざるを得ないと、岡本太郎がおっしゃるので。外交的に見える人も傾向が強いだけで、僕は若干内向の傾向にあるだけで。内向の時間を減らしたい!僕はそう思う。