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日記⑩+③ ('マジさ'と'ひょうきんさ')

9月10日

最近親しい人と話していて気付いたのですが、僕は現状の自分に満足しづらい性分らしいであるらしいです。(部分的に)常に変わっていける、まだ改善できると考えてしまう。俗に言われるネガティブや自己否定とはまた違うと思うんですね。今の自分はあの時の自分からこうも進歩した、ということは、今の自分に適した方法を試行錯誤して掴めさえすればさらに上へと行けるのでは無いかという上昇志向ですね。お、それを持てるのは良いことじゃないかと思われる方もいるかもしれませんがこれは結構しんどいことです。自分を過度に期待してはそのギャップに打ちのめされる。それに加えて他者と比べることをあまりしない。誰かの地位に辿り着きたいという負けず嫌いな精神がかなり希薄で。だからこそ、自分で自分を認められるか否かという尺度しか持ち合わせておらず、モチベーションの維持も自分次第だし、大方満足できないんですね。それはとても歯痒いし、理由無き倦怠感に苛まれてはそれに対する焦燥感で自己嫌悪に陥ります。逆に、自分の満足のいくパフォーマンスができているときは日常の全ての歯車がカチッと合って調子がいい。他人からのよくやっているよというメッセージはありがたく頂戴して、それがモチベーションの維持や自己肯定に繋がることもあるのですが、後々には必ず'まだ変われるねんで、見といてな'という考えが現れる始末。そうやって生きていくしか無いのかなと思わされた言葉がまた例のごとく若ちゃんの言葉の中にありました。

 

(仕事中も漫才のネタを作ることで頭がいっぱい)「それは苦しみなのですが、あまりに慣れすぎていて苦しみと平常心が乖離しながらも同居しているような不思議な感覚です。」

 

この境地があることに勇気づけられました。僕は平常心の時間があまりに少なく、水をたっぷり吸った綿のような重い蟠りが心にいつもあって苦しい。(ほとんどそっちが'平常'心みたいになってますが。笑。)だけれども、乖離かつ同居という考えがあってもいいんだなと思わされました。それは例えば友人と楽しく話をしている時に、何かのタスクに追われている焦燥感、その共存は可能なんだということ。

ただそうは言っても精神も身体も決して強い人間では無いので、誰かに評価されることや認められることを待っている自分もいるんです。そういう承認はバンドエイドのようなもので、一時的に膿んだ傷を覆ってくれ、その間は自由に遊び回ることができる。それで次第に傷が治り、バンドエイドも外れるんですが、しばらくするとまた転んで怪我をする。これの繰り返しです。ということは常に持ち歩けるバンドエイドの数を増やしていければ、傷の応急処置能力も数段上がっていけると思います。それは誰かにしてもらったことであったり、誰かの放った言葉だったりします。(また次とか上を考えてやがる。笑。)

昔のテレビの映像でタモリ岡本太郎が対談しているのを見ました。タモリが「本日のゲスト、岡本太郎さんです」と言うと、岡本太郎が「え、そう?知らなかった」と答えるんです。僕は'マジさ'と'ひょうきんさ'のバランスが絶妙でよく分からない人が昔からツボで、ここでの岡本太郎の発言もそれに入ります。その後にタモリが「あまり自分のことは考えない?」と聞くのもまた絶妙で。「考えないんだろうねえ」と太郎ポツリ。「名前なんか別に無い方がいい。動物には名前がない。人間だけですよ。自分の名前を意識してろくな行動をしないでしょ。人間の虚しさは名前があるから、それにこだわるから虚しくなるんだよ」岡本太郎はマジで言っているのか冗談も織り交ぜているのかが全く分からないことをよく言うんです。結構マジなトーンで。タモリもまたそのバランスに溶け込み、引き出すのが本当にうまくて。だからタモリの周波数がなんだか昔から好きなんだろうなと思いました。僕はいつもマジで、ゆとりを持たせることがなかなかできずに生きてるので、こうした相手に誤解を生むようなひょうきんさを持ち合わせている含蓄ある人に至極憧れるのです。