もっとわすれる!

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日記⑩

8月23日

昨夏受けた手術の経過を見てもらうためかかりつけの皮膚科へ。それから調剤薬局へ。「結構久しぶりですかね」の「久しぶり」のイントネーションに温もりがある。黄色の声色。テレビではお昼の番組が流れていて、老眼鏡をかけた60代と思しきおばさんがぶつぶつ喋りながら動物の映像を見ている。生後まもないアシカが水に浸かる練習をする動画に「いや〜かわいい」「はははは」「いやあ上手に泳いで〜」と言っている。これは桃色。また別のアシカの映像。仮死状態で生まれたアシカ。飼育員の必死の救命、延命措置が功を奏して無事誕生した映像。「よかったねこんなおっきなって」と涙ぐんだ時のような喉のしまった声色で、そのおばさんはこちらを見て微笑んだ。その微笑みを見て、いろいろなことが脳に甦ってきました。

駐輪場がパンパンで停めるところを探しているとおばちゃんに「私ここどけるわな」と言われたこと。

インターンに参加した時、昼休憩の時間になって席を立つと「昼ごはん1人?一緒に食べない?」と見ず知らずの学生に声をかけられたこと。

横浜駅のホームから改札に上がるためにエレベーターに乗ると、「どうぞ!どうぞ!」と見ず知らずの方に言われたこと。僕は一瞬戸惑って、「あ、ありがとうございます」と返したこと。

なんだったんだろう。全部、なんだったんだろう。色んな知らない人の色んな色の声かけ。確かに覚えていて、時に心があったまったり、悲しくなったりする。一つ一つ抱えている意識はないけれどぽつぽつ積もっている。全部分かろうとする往来の性分に一度引っ込んでおいてもらって、分からないままやり過ごしてみることにします。

 

東京にいると、人生の長期のデザインを考えるじゃないですか。システムとか、スペック、っていう言葉もそこから生まれるでしょ。それで、そのゴールにたどり着けるかって、今の自分と比較すればするほど、自己肯定できなくなっちゃう。僕はそれを繰り返してきた。でも、親父が死んでからは、1日の感覚が変わって、今できることは楽しもうって思いました。

 

こういうことがあります。自発的に好きなのか、他に触発された好きなのかが分からなくなってしまうこと。例えば僕は太陽の塔が高3の時突如好きになりました。そのフォルムや圧倒的なシンボルさに。でもちょっと待って、若林が好きだから好きになったのか?あいみょんとの親和性が僕にそう思わせたのか?いや当時はまだ2人をそれほど好きではなかったよな。多分、自発的に好きになったのに、他人の好きが介在して、自分の好きがものすごく価値の薄いものに感じてしまうことがあるんです。だから自分の好きなものに敬意を払ったり、好きでい続けることができなくなったりします。でもいいんだよね。この感覚は。ここで名前を出すと他意を含みそうですが恐れずに書くと、髭男の歌詞がとても素直に入ってくる。孤独や解放や焦り、怒り、劣等感や等身大を歌ってること全てが芯を食うんです。ブルーハーツoasisは変わらず好きで、それでいいし。誰かの好きを否定する気もないし。そんな歳でもないと思う。

 

美術館で絵と相対する時、美味しすぎるものを口に運んだ時、カタルシスや恍惚さから分泌された汁のようなものがジューっと、ちょうど生搾りグレープフルーツのように出ることがある。そういう時僕は大抵目を瞑って汁が出ていかないように留めます。或いは目をぎゅっとすると汁もギュッと出てくるような気がする。それからまた目を開けて、現実と対峙する。んーもっと深く味わいたい。表層的な悦びや歓びはインスタントで、ファッションにしてるっぽいやろ。○○を好きな自分を、○○に所属している自分をアピールしているみたいであまり素敵とは思えないから。

 

「愛しているのに、愛してくれない」と考えがちな人は、基本的にまちがっている。つまり、その人は、「愛する」ことはもともと難しいものだ、と、知らないのだろう。(『ボールのようなことば。』糸井重里