もっとわすれる!

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日記⑦

8月17日

実家に帰った。JR大阪駅から環状線外回りに乗ると見えてくる企業のキャラクターが24℃を示していた。「さっむ!」『さっむいな!そんな薄着で大丈夫?』「これ案外生地ごついねん、ほら」『ほんまやええな、乾きにくそやけど』「そやねん、脇の下な、いっつもちょっと濡れたまんま着てる」『そういうのなんていうんやっけ?さらばの森田が着てそうなん』「カレッジとかなんとか?」『あーそんなんそんなん』そういう会話が続いていけばいい。そういう会話は、ともすれば難しい。

他人の承認欲求を満たせる余裕を持ち合わせていたい。そうした方が目の前にいる人は生き生きとして結局何かと僕も居心地が良い。こういう考えは狡いのかもしれない。ダサいのかもしれない。人をいつも下から見ているような構造を取っているのはダサいかもしれない。他人に甘んじず、興味を持とうとせずに他人を承認したくないと意地を張っている人の間で折り合いをつけていくのは難しい。他人を認めるって自分を認めることでもあるから。素直さが音を立てて崩れていくようなここ最近の姿はもう見苦しいぜ。俺は好きだぜ、素直で、繊細で、でもだからこそ人の痛みが痛いほど分かってしまうそういうところ。実直さと器のデカさはそうか、比例では無いのかもな。オードリーのオンラインライブが至高だったのでついお札を剥がしそうになった。

 

8月18日

実家には屍が転がっている。昔読んでいた本を手に取った。西加奈子の『舞台』と坂口安吾の『堕落論』。高校の時に読んだそれらは特殊な訓練で要領を得たようにすらすらと読める。切実ではない、控えめな文章にこそ涙が出そうになる。少し分かるようになっている。そして、少し分からなくなっている。分からないというもどかしさが。当時、分からないということは何にも変え難いエネルギーだった。今になっても毎日のように沸き起こってくる。もっと溢れて欲しい。自分の感性が鈍ってしまって、「普通」になってしまわないように。「普通」は交換可能です。相互理解、歩み寄れば散り散りにしてしまったよな。大丈夫だよ、誇示できなくても、模倣でも、個性に溢れている。分からない人には分かってもらえなくて良い。出来ていると信じて疑わない人には出来ない人の気持ちや、自分が出来ないかもと顧みることが死ぬまで出来ない。何も分からない人と生きるのは辛いよな。それでもうまくやってあげて。これは逆説でもなんでもなくて真っ当な事実。そう西加奈子が語りかけてくれたような、今日読んだ『舞台』は3年前に読んだ『舞台』と決定的に同じだった。

堕落論』の中に入っていた『恋愛論』は明日も明後日も来週も来年の今日も読むかもしれない。

所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。(『恋愛論坂口安吾

今日は一日飽きることなくページを捲っていた。陽も暮れかかった黄昏時、老犬が足元で吠えたので栞を挟んだ。頭を撫でると、いつもよりよく笑った。ここ数日の曇り空が今日晴れたのはなるほど偶然では無いかもしれないなあ。

ー屍は立ち上がって、僕の見えない位置でゴトッと音を立てて寝転んだ。ー

 

ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私は嫌いだ。(「恋愛論坂口安吾

 

こういうことを書くのはいかにもという感じがして躊躇いがちになるが今日は書こう。大阪には親切が溢れているということを。東京では親切をパッケージにして流通させている感じがする。「やさしいこととは」みたいなことは色々言われるが、人の立場に立って考えられること、つまりは他人の辛そうな姿を自分のことのように捉えられること、或いは常に他人の言葉に耳を傾けられることだと思う。自律神経赴くままに口笛ぴゅ〜っと走る雨道