もっとわすれる!

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日記④

5月21日

下北沢に行った。しばらく行かないうちにどこか虚しさを感じる街になっていた。消費される音楽、ファッション。古着屋店員の知識や熱量が"アパレル店員"をファッションにするにしても些か脆く、もどかしくて淋しい気持ちになった。今、こういうの着とけば/聞いとけば?という無難のスタンスが文化を退廃させる。

その人にしか出せない音、その人にしか出せないその人らしさなんてものが消え失せそうになっていく。良いも悪いも薄くて厚い。

 

5月22日

この社会で必要とされること/されないことで人の価値みたいなもの(そんなもの存在しないのに)が評価されることがこの先もずっとテーマであり、ずっと疑問だ。例えば、表現者(画家に写真家、文筆家etc...)の才能はこと日本において軽視されがちに感じる。(僕自身、本当に残念なことで、遺憾に感じる)そもそも才能を才能として評価されづらい。『こんなの俺でも描ける』と軽々しく言ってしまえるのは、心底では必要の無いものだと見下しているからだ。(分かろうとしないうちは分かれないのに、"分からない"で片付けるうんこちゃんたち)そういうことを軽々しく口にするうんこちゃんに限って、他人に平気で自信持った方がいいよを押し付けてくる。この社会に必要とされているスキルをそれほど多くは持ち合わせていない(或いは段階的に破棄した)ため、スキルの多い人の前では自信が無いように振る舞い、自信がある人を自信があるね〜強いな〜と囃し立てているだけで、例えば娯楽を目一杯楽しむことや、思索にふけることに長けていて、そのことについてそれ相応の自信を持っていたとしても、競争競争!の精神で生きてきて、勝利こそが自信に繋がる主義の人たちのものさしでは到底測りきれないので、結果的には自信が無い、とみなされる。社会の多くの場面でスポーツ経験が優遇されるのは、競争をくぐり抜け、自信を持つことこそがより良いという状況に慣れているからだ。そしてそれをチームで共有するからこそ、そのチームは伸びるといううんこちゃん組織論によるらしい。人より数字が上である必要があると決めるのはなんなのか?自分が豊かだと感じる生活を送ることで人に勝つ・比べる必要はあるの?でも綺麗事を並べても生きるには金がいる、うん、そう。だから悩みというのは抱くもので有り得る。普通に、暫くは。

P.S.例えば『絵や文字をかく才能』や『人の話を聞く才能』は逆説的な才能なのかなと思う。本当は(ごく一部の天才以外には)必要無い、という接頭語がチラついていて腹立つ。社会は数字(お金や人望)で測れるものに頼る。『色んな人が注目するから良いものみたいになるの、もうやめな〜?』(心のゆきぽよ数字に頼らなあかんくらいのちっぽけな自信やないけ〜!

 

5月23日

眠らなかった。時計は午前6時を指していて、『愛がなんだ』を見始めた。あまり好きになれないと感じるや中断。少し眠った。午後、BOOKOFFに20冊ほど本を売りに行った。超えるかなあ千円、と目論見を付けて、千円を少し超えた。何かを売った後は、無駄な出費を極端に抑えたくなる。いいこといいこと。河川敷で小学2年生くらいの子どもが水遊びをしていた。明るさだけで圧倒しない曲を、今日は聴きたい。雨続きの日々に一日晴れた日が訪れた、気持ちはそれだけですこぶる良くて、足に登った蟻を振り落とさず、降りていくのをただ見てた。

 

恥ずかしい それはかっこいい

いまのわたし 甘い砂糖と苦いグレープフルーツみたい

(カネコアヤノ「グレープフルーツ」)