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日記⑩+⑩+⑩+② 都市で生きるということ

9月5日

街の中、歩みを西へと進めていく。足早に。突如として視界は開ける。そこには海がある。

「波が押し寄せ、引いていくそのきわ」から向こう側を海と呼ぶとするならば、ビーチ(砂浜)が始まるポイントから"海"までの距離感というのは僕たちが海をどの程度憩いの場として認められるかの秤として機能するように思う…

LAのサンタモニカビーチ、そこはあまりにビーチの始まる地点から"海"までが遠い。サンタモニカの砂浜を海へと歩く間、僕は強い不安を感じた。ハイキングの最中、下山してくる人に「頂上までどのくらいか」を聞いてしまう時のような拭えない不安感があった。それで、僕はサンタモニカの海に達した後、5分も海辺にいないで街の方へ踵を返してしまった。

つまり以下のようなことです。海という自然と、背後にある日常との境界線の役割を砂浜が担っていて、どれだけ日常から隔たった場所へ行けるか、そしてどれだけ日常へすぐに帰れるのか、人間の潜在的な恐怖感と関係しているということ。

山の中は一足踏み入れればどこまでも自然で、日常から隔たるでしょう。"探検"の心のざわめきやワクワクと、頂上から日常を垣間見た時の安心感というのはこれで一応説明がつく。(非日常のワクワクと、現状把握によるシリアスな不安)

僕が思うにここ、バンクーバーのイングリッシュベイはかなりいい具合で砂浜が広がっている。

今度は来た道をゆっくり東へ歩く。街ゆく人々は僕とは無関係に見える。イヤホンの外側、「がやがや」は「がやがや」として僕の耳に届く。ピザ屋のシリアスな面持ちの彼、(新入りかな)。ビールのおかわりを求める彼女、(どうしてそんなに仏頂面なの?)。野球のユニフォームに身を包み仲間と肩を組み合うパブの中の彼ら、(ブルージェイズは今日も勝ったね)。

みな、僕とは無関係に各々の「物語」を生きている。僕と彼らとがここで出会わなかった「物語」は、ここで出会ってしまった今まさに進行中の「物語」とさして変わらないように思える。そういう都合の良さが都市にはある。都市は機能的で、胸を打つものに満ちていて、それでいて寂しくて、いつもぼんやりと自分が自分から乖離していく。僕らが快適さを手に入れたと同時に失った何かー

それにしても自然と共にある都市はいい。と同時に、僕はどうしようもなくまた結局は自然から都市へ帰ってきてしまうみたいだ。そして都市の孤独はいつも「がやがや」の間を縫って、僕に孤独だということを知らせようとしてくる。

僕がandymori小沢健二みたいなサウンドが大好きなのはその寂しさを彼らが熟知しているからだと思った。都市の無数のように煌めく部屋の灯りのどれかひとつ、その灯りの下、孤独な彼らは自らの孤独を熱して、打って、紡いでいる。そうして今日も僕の胸を打った。

もうなんでもいいよ 連れて行ってくれよ どこまでも行こう どこまでも行こうよ ゴキゲンな音楽を聴かせておくれよ (クラブナイト/andymori)

 

今のこの気持ち ほんとだよね(強い気持ち・強い愛/小沢健二)

1枚目ロサンゼルスのサンタモニカ,2枚目バンクーバーのイングリッシュベイf:id:takaabgata:20220906124201j:image

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