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〈眠る•恋する•消費する〉退屈だけど都市が好き!〜岡崎京子『pink』を読んで〜

 

 うとうと、眠りに落ちる直前寝ぼけた頭で考えていた、「ねたい・ねむたい・ねむりたい」の違い。一つずつ音が増えて、少しずつ意味もちがう。頭にはI'm sleepyがふわふわ浮かんできて、それを日本語言うと何になるか考えていた。おそらく一番妥当なのは「眠たい」になるんだけど、じゃあ「寝たい」ってなんだ?

 恐らく「寝たい」って言うときはすぐそばにベッドがあるのに何かしらの理由で寝床につけないときだと思う。あとはもう一つ、ぐっすり眠らせてくれる誰かと、って時。

 「眠りたい」なんて思うのはどこかのおとぎ話のお姫様だろう。いつまでも眠ってろ、タコ!って言いたくなるような。

 動詞「眠る」にしても、ニュアンス的には麻酔やスタンガンみたいな他のパワーで強制的にすやすや/ぐっすりと深く寝てる感が出る。或いは赤ちゃんやペットなど、大人の人間の庇護下で「眠って」る感じか。「睡眠」という熟語についても考えていて、睡眠というのは然るべき時間にしかるべき方法で意識を落としている感が出るな、って思った。昏睡は「然るべき」感が欠落してる。そんなことを思って、岡崎京子作品の女の子たちは、「眠る」がぴったりだなと思った、愛すべきお姫様&タコ!な人たち。

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  もう一つのお話。ここんとこ、一気に肌寒くなってきた。通りを歩いてると肌身につめたさがひゅるりとリボンの様に絡まっていく。にんげんってどうしても温度がガクッと下がったりして季節が変わるサインを受け取るとおセンチにならざるをえないんだな、どうしようもない

 この頃のテーマは都市に生きることでぬくぬく育ってく退屈について、です。まあようは岡崎京子さんを読んでます。フリッパーズギターを聴いています。大阪の都市部に生まれ育ち、大学で東京へ出て(多摩ですが)いわゆる都市部にしか住んだことのない僕は、それなりに彼女たち(岡崎作品の女の子たち)の気持ちがわかるかもーってくらいのとこまでいってます

 一日家の中で過ごすことなんかゼッタイできなくて、何かしら刺激を求めて都市へ繰り出し、退屈だなー、なんかいいことないかなー、欲しいものもないけどウィンドウショッピング、お金使わないと時間って潰せないなー、Netflixで映画でも見よう→20分で飽きたー、ダメだな本当にダメだ、家事も溜まった、明日はバイト、誰かに連絡して会おうか、みんな忙しいよなー、なんて風に過ごすことが多々あった、忌まわしきことに。

 

 ある論文を読み、それはドイツの哲学者ベンヤミン村上龍を引き合いに出しながら「退屈」について書かれたものだったんですが、やや腑に落ちた感じ。まずぼくらを取り巻く生活には「自然」という状態がある。

ものごとが「自然」であるとは概念と対象が一致し、世界の変化が既成の枠内に行われると認識される状況である。(カッセゴール2001)

 そうした状態が撹乱されることが自然からの「解放」そして同時に「破壊」を意味し、このトータルの運動を「衝撃」とロンブンでは呼んでいた。まあ要は、海外旅行に行って、肌や目の色服言葉、全てによって「自然」が壊れて、でもそれらがしばらくすると「自然」になっていくっていう至極当たり前のこと。話はここから。

 「破壊」の後には「自然化」が待ってる(初めに驚いたこと、2回目には驚かなくて3回目には退屈)これがぼくたちが退屈を感じる理由だという。都市部は変化が激しい、例えば新宿や渋谷なんてのはずーーーーーーーっとガタガタ工事をしていて、ポップアップ/潰れていくお店と新しいお店/人、すべて変化で。こんな風に衝撃が多すぎると人は衝撃を衝撃として捉えないようになっていく。ベンヤミンの言葉を借りると「刺激防衛」するようになる。ぼくたちの衝撃に対する意識は極限に研ぎ澄まされて、衝撃を浴びないようにしながらも新たな衝撃にはますます鈍感になっちゃう。あーー退屈、ってこのことみたい。ベンヤミンによると。


 もう一つのタイプの退屈は、僕らが真っ先に想像するタイプの「衝撃の少なさに対する退屈」とロンブンは言った。日常の何もなさに辟易する感じ、僕の退屈はこれかなあ。(複合的かもなあ)

 ベンヤミンの「衝撃」が外界からの一方的な、消極的に享受するものとして存在した一方で、村上作品の人物たちはその域ではなく、自分から働きかけて「衝撃」を起こそうとしているという対比が興味深かった。衝撃に飢え、退屈を訴えながら、それこそが愛おしいとする岡崎京子作品の女の子たち、アクションを起こす村上作品の人物、僕はそのどちらでもなかった。

『退屈さとの闘争、衝撃へのノスタルジー-W.ベンヤミン村上龍をめぐって-』(カール・カッセゴール2001)https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/192612/1/kjs_009_075.pdf

 

pink 新装版

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 ラストのお話。「彼氏/彼女が欲しいな」と呟く時の消費としての恋愛をおもってため息が出た。恋人という概念を消費したいだけのような、結局そこに還ってくる閉塞感。純愛ってなんですか?結婚という制度がこの世になければ他人に恋心なんか抱かなかったかもしれない、、んなこたないよなぁ!とか。

 恋愛観について語るたびに、或いは恋愛について語られた言説、あらゆるメディアを享受するたびにより強固になっていく「恋愛」像、と自分で作り上げた恋愛の規範を遵守できる可能性の高い相手を探すだけの、辞書的な〈恋愛〉とはかけ離れた作業を、今後もしていくんやろうか

いつか誰かと完全な恋に落ちる(「ラブリー」小沢健二)

「付き合う」が登場しない幼稚園や小学校低学年のこころの弾みを思ってため息が出た。あの気持ちに似たものを今抱くとすればそれはジム・ジャームッシュ作品の筆致(ん…?)、岡崎京子の漫画(もしやこれ…)、小沢健二の歌詞世界(あ、世界観ってのはもう完全に…)、

 

 

 

 


消費!!!!!!

 

 

 

悲し、くもないし、絶好調に幸せでもない感じ。〈「消費を意識してる」人間〉としての[自分]を{消費している}感覚、終わらないバトル。

 

 太陽の光が誰かの金色の髪をすかして白く輝いているのがきれいだなーって思ったり、おいしいコーヒーの匂いがしておじさんになった時のことを考えたり、危うく泣いちゃうほど心震わす曲に出会えたり、一口食べて「リピート確定!」と口に出したり、ぶるぶる身震いどんとこいな映画があったり、そういう刺激ひとつひとつを日常の一部に落とし込みながら(刺激は疲れるしんどいからね)、どうしようもなく愛し愛され生きていくんだよ、って日々言われている気がする、秋めいてきた街路樹なんかに。

 あのベランダの内側では知らない誰かが、ぼくと〈知らない〉同士の生活を生きていて、然るべき時に眠りについて、然るべき時間に起き、新しい1日を始めている。

   自分なりの退屈とのやり過ごし方と折り合いの付け方を模索してきたけど、これからも何か胸を激しく打って恋しちゃうようなものと出会い、時にそれを消費し尽くしたような気持ちになって虚になりながら、どうしても最後は都市へ還っていくんだろう、僕は。